風向きは変わりつつあった。AV機器メーカーの主張に,コンテンツ提供者も耳を傾け始めた。本格的な暗号技術を使わずとも,データ・ビットをランダム化する,いわゆるスクランブラで十分ではないか――。

1/10にしろ

 「市川,反町,ちょっと来い!」

 大船の研究所に竹田の声が響き渡る。MISTYのハードウエア実装を進めていた市川哲也と反町亨の2人を呼び出した。竹田の手元には,2人がつい先日提出したばかりのMISTYの回路規模に関する資料がある。

 「ここに書いてあるMISTYのゲート数,もっと小さくなるんだろうな」

 来た,来た,始まった。市川と反町は身構える。

 「ダメです。再度検討してみましたが,改良を重ねても,10数kゲートが限界です。これが精一杯の値です」

 「分かった。次は1kゲートまで落とせ」

 「えっ,1kゲートですか? それは無理ですよ。その資料にも書きましたが…」

 「検討もせずにダメと言うんじゃない」

 竹田は容赦なかった。無謀ともいえる強烈な指示が,だてや酔狂でないことは,刺すような目付きから明らかだった。市川は涙があふれ出そうになるのを必死でこらえ,岩のように堅い表情の竹田に反論した。

 「できないものはできません。MISTYは暗号であって,単なるスクランブラとは違うんです」

 「そんなことは聞いていない。もっと小さくしろと言ってるんだ」

 竹田とて理不尽な要求であることは,重々承知していた。市川や反町が回路規模の削減に粉骨砕身で取り組んでいることも分かっていた。しかしMISTYを業界標準にするためには,ここで主張を曲げるわけにはいかない。さらなる小型化を実現すれば,CPTWGの目の色も変わるだろう。竹田は,市川と反町に一縷いちるの望みを託した。

やればできるじゃないか

 実は市川と反町には,竹田には内緒の秘策があった。ただし製品に適用すべきかどうか,いまだに逡巡しゅんじゅんしていた。新方式を組み込んで,ハードウエアが動かなくなってしまったら,元も子もない。

 「なんだよ,2人ともしけた顔しちゃってよ」

 市川と反町の様子を見に来たのは,またしても時田である。  =敬称略

―― 次回へ続く ――