浮かない顔の男が1人

 酒と桜に一同が酔いしれる中,浮かない顔の男が1人いた。暗号研究チームの元締めである情報セキュリティ技術部の部長,竹田栄作だ。

 ――あれから,もうすぐ2年がたつ。竹田の頭には,すぐ横で駄じゃれを飛ばす野間口から,就任直後に言い渡された言葉が浮かんでいた。

 「いいか,竹田。おまえの仕事は,『MISTYミスティ』を世界標準に育てることだ。社内の製品に使うだけじゃ駄目なんだ」

 竹田は就任以来,がむしゃらに走り続けてきた。皆の先頭に立って米国に赴き,MISTYの売り込みに奔走した。開発要員も増やした。徐々に体制は整ってきた。しかし,社外でMISTYを採用した例はまだゼロ。世界の業界標準は,歩いても歩いても決して追い付けない蜃気楼しんきろうのようなものだった。

 追い風がなかったわけではない。緩やかだが確実に,時代は暗号技術を欲する方向に転回していた。1年前の1996年春ころから,竹田らはAVコンテンツの著作権保護への応用に注目し始めた。音楽や映像のデジタル化が進み,インターネットが爆発的に拡大しつつあったことで,標準の著作権保護技術を求める声が,あちらこちらで上がっていたのである。著作権保護は,暗号技術がなければ始まらない。標準の著作権保護技術に採用されれば,MISTYは名実ともに業界標準の座に就ける。

DVDに売り込もう

 竹田らは,社内の家電製品を扱う事業部から,DVDプレーヤに組み込む著作権保護技術の標準化が始まることを聞き付けた。後にCSS(content scrambling system)と呼ばれる技術である。DVDの標準化を一手に仕切るDVD Forumには,米国ハリウッドに根城を置く映画業界を中心に,強力な著作権保護技術を求める声が寄せられていた。強い著作権保護には,強い暗号が武器になる。米国の標準暗号「DESデス」よりも安全性が高く,コンパクトに実装できるMISTYならばピッタリだ。

 竹田と暗号研究チームのメンバーは,ここぞとばかりに攻勢をかけた。DVDの著作権保護システムを検討するために発足したワーキング・グループ「CPTWG」に,MISTYの採用を提案した。数ある会合には欠かさず顔を見せ,ロビー活動にも精を出す。多いときには1カ月に2度,3度と交代で米国に飛び,CPTWGの標準化活動に張り付いた。

 当初の感触は悪くなかった。コンテンツを提供する側に立てば,保護技術は強ければ強いほどありがたい。市場の早期立ち上げを目指すAV機器メーカーも,虎の子のコンテンツを握るハリウッドの機嫌を損ねないよう,慎重を期していた。できるだけ強い著作権保護技術を盛り込むという点では,AV機器メーカーにも異存はなかった。ただし,譲れない一線があった。製品のコストである。

 一般に保護技術が強力になるほど,回路やソフトウエアの規模は増える。つまりは,価格を押し上げる。製品価格を低く抑えたいAV機器メーカーは,コストの大幅な上昇を招く保護技術を敬遠した。機器メーカーは,暗号化処理回路の規模に一定の基準を設けた。「1kゲート程度で何とかならないか」というのだ。他の暗号方式と比べて小さいとはいえ,MISTYの処理回路の規模は削りに削って10数kゲート。機器メーカーの要求と,ケタが1つ違う。