次の論文のためかと勘繰ってはいたものの,まさか全く新しい暗号アルゴリズムとは,想像もしなかった。しかも,DESをもしのぐ強さを誇る画期的な暗号という。その開発の一翼を,知らず知らずのうちに自分達が担っていたなんて。

「MIST」でどうでしょう

 山岸の方針に沿って,暗号研究チームは松井が作り上げた基本アルゴリズムを磨き上げる作業に着手した。松井が基本原理の論文を発表する1995年10月より前に,報道機関に向けて発表することも決めた。DESの解読実験に続き,三菱電機の暗号研究が世に問う第2弾の成果となる。

 「そうそう松井君。暗号の名前,考えといてね」

 大々的に発表するのだから,目を引く名称を付けたいところだ。松井は複数の案を列挙してみた。三菱電機のマークである「Diamond」はどうだろう。硬くて安全そうで,語感もいい。でも,やっぱり安易かな。松井は,別のアイデアをひねり出して山岸にうかがいを立てた。

 「山岸さん。暗号の名前ですけど,『MIST』ってどうですか?」

 「ふーん。MISTね。なかなかしゃれてるじゃない。何か理由でもあるの」

 「実はですね…」

 MISTは,Mitsubishi Improved Secure Technologyの略称である。日本語にすれば「霧」。霧がかかると,周囲のものは,はっきり見えなくなる。本来の姿形を隠してしまう点で,暗号に似ている。言葉の響きも悪くない。

 あくまで,これは表向きの理由。本当の由来はもっと単純だった。一緒に暗号の開発を手掛けるメンバーの頭文字を並べたのだ。松井のMに市川のI,反町のSに時田のTである。

 松井はこの名前に,1つの思いを込めていた。新しい暗号の開発は,まだまだ緒に就いたばかりである。市川,反町,時田の協力なくして,詳細な仕様を詰める今後の作業はおぼつかない。MISTという名前を通して,松井は3人に「これからも頼むよ」と呼び掛けていたのである。

残念ながら使えません

 ところが広報発表を前に,またしても問題が生じた。今度は知的財産部門から,名称にクレームがついてしまった。MISTを商標として登録してほしいと知的財産部門に依頼したところ,思いも寄らない返事が戻ってきた。他社が既に登録済みであるばかりか,当時流行していたゲーム・ソフトの名称とも一致する。 分野が違うとはいえ,二番せんじに見えかねない。MISTという名前を使うこと自体,やめた方がいいというのだ。

 MISTに難色を示す一方で,知的財産部門は代案を寄こした。MISTの形容詞「MISTY」でどうかというのである。知的財産部門がMISTの商標を調べていると,三菱電機のある工場がMISTYを登録していることが判明した。先方に打診したら,権利を譲り受ける手続きも問題なさそうという。

 松井に異存はなかった。言われてみれば,なんだかMISTよりしっくりくる気もする。Mitsubishi Improved Secure Technologyの略称という言い訳も,Technologyの「y」を使えば通用する。残る問題はただ1つ。松井は,即座にひらめいた。名前の頭文字を借りるのに,ぴったりの人物がいるじゃないか。

 「あのー,山岸さん。ちょっと相談があるのですが…」

―― 次回へ続く ――