組織の改変に伴い暗号研究の専任になった山岸は,戸惑いを隠さずにはいられなかった。何しろ山岸は,誤り訂正符号の仕事がしたくて前職を辞し,三菱電機に中途入社したほどである。それなのに誤り訂正符号の研究から外れなければならないとは――。
暗号の研究を事業につなげるという会社の方針にも,山岸は懐疑的だった。研究といっても,社内の事業部を相手に細々と進めてきたものだ。誤り訂正符号の研究が支えていたからこそ,続けられた仕事といえる。暗号だけで採算を合わせるなんて,本当に可能なのか。事業に直接かかわるようになって,研究所の雰囲気が変わることも気に掛かった。商売から距離を置き,自由な発想を許すところに,優れた研究が生まれる土壌があるはずなのに。
山岸は悩んだ。何はともあれ,手近にある材料をかき集め,それをどう事業に結び付けていくのか,必死に知恵を絞っていた。そんな折,
あれが暗号だったとは
驚きからさめると,山岸の決断は早かった。松井から相談を受けてほどなく,松井の暗号アルゴリズムを,当面の事業の柱に据える方針を決める。
山岸の手元には,これまでにこしらえた習作の暗号アルゴリズムと,それを実装した暗号用LSIやソフトウエアの資産があった。当初はそれに肉付けして製品に仕立て上げるつもりだった。これなら確かに多大な労力をかけずに製品を生み出せる。ただし他社と比べて際立った特色を打ち出せない。松井の暗号は,いまだ荒削りだが目映い
山岸の方針を受けて,今度は暗号研究チームのメンバーが驚く番だった。とりわけ市川哲也,反町享,そして時田俊雄は,狐につままれた思いだった。
このところ3人は,チームの先輩である松井から,奇妙な仕事を請け負うようになっていた。アルゴリズムの一部を見せられて,回路規模はどれくらいになるのか,ソフトウエア処理に向くのはどちらの方法か,検討するよう指示を受けた。内容を見る限り,一緒に進めている事業部向けの仕事とは,どうも関係がなさそうだ。それでも「これは何か」と面と向かっては聞きづらく,それとなく疑問を匂わせるたびに,のらりくらりとかわされていた。