簡単に言えば差分解読法は,少しずつ内容を変えた平文を大量に用意し,それを暗号化したデータと見比べることで,暗号アルゴリズムの偏りを求める手法である。この偏りを使って,鍵データを推定できる。56ビットの鍵を使う米国の標準暗号DESを対象に考えると, 248組の平文と暗号文のデータを調べればよくなる。これでも現実的な時間で処理するには程遠い数字だ。ただし,FEALのようにこの手法を用いて解くことができる暗号もあった。この手法は,暗号化前の平文と,それに対応する暗号文の両方を知らないと適用できないので,実際にはFEALがお役御免になるわけではないのだが。
差分解読法は,発表と同時に暗号研究者を熱狂させた。松井もその洗礼を受けた1人だった。なにより斬新なコンセプトを定式化したことが素晴らしかった。
鳴かず飛ばずの暗号研究
松井が差分解読法に引かれていたのにはもう一つの理由があった。汎用性が非常に高いことである。
「これだったら,FEALのほかにも使えるんじゃないか」
そう直感した松井は,Shamirらの理論を他の暗号に適用したくてたまらなくなる。松井には,暗号の弱点を暴露するつもりなどさらさらなかった。純粋に,暗号解読の数学的な挙動を知りたいと思ったのである。
それまで松井は暗号研究に全く興味がなかった。決して暗号との接点がなかったわけではない。実は,松井の属するチームのすぐ横,同じ課の中に暗号研究のチームがあった。暗号研究は,松井の入社当時に直属の上司だった井上徹が1985年に立ち上げたプロジェクトである。その井上は松井が大学時代に所属していた合唱部のOBだという奇妙な因縁さえあった。
それでも松井には,最初は暗号研究の何が面白いのかさっぱり理解できなかった。Shamirの論文に感銘を受けて,暗号の解読というあやしい世界に対して大いに興味をそそられていたが,隣のチームで進む研究とは別物と考えていた。
自由気ままなムードの中で
松井は,本業の誤り訂正符号の研究を手掛ける傍ら,いわば趣味で暗号の研究に着手する。松井にとって幸いだったのは,職場がそれを容認したことである。鎌倉の研究所の往時を知る者は,一様に「大学の研究室のようだった」と口にする。好きなことを自分の裁量でやらせてくれる,自由
雰囲気づくりに大きくひと役買ったのが,山岸篤弘である。誤り訂正符号の研究を取りまとめていた山岸は,1990年に課長に就く。山岸には「熱い」という形容詞がふさわしい。絵に描いたような熱血漢で,とにかく押しが強い。その仕事ぶりを買われ,労働組合の委員を兼務していたこともある。
山岸は,研究者の心理をよくわきまえていた。優れた成果を上げるための条件は,何よりも研究者自身が面白がることと,身に染みて知っていた。部下が持ってくる面白い研究案件に,山岸は迷わず実行の許可を与えた。そんな山岸の庇護を受け,松井は心置きなく暗号解読にのめり込んでいく。気が付けばすっかり,暗号研究のとりこになっていた。