サンプリングした楽器の音をコンピュータ上で組み合わせ,あたかも人間の演奏のように仕上げる。伊藤がずっと追い求めてきた「仮想楽器(virtual instrument)」技術は当時ですら,DTMのコア・ユーザーであるミュージシャン,「とりわけプロの間で評価が低かった。歌声合成はなおさら。MEIKOの歌なんて歌じゃないとも言われたことがあった」(伊藤)。完成度が飛躍的に高まったとはいえ,歌声合成技術はまだ発展途上,プロの要求には堪えられないかもしれない。

 だが,その周辺にいるいわゆるハイ・アマチュアやパソコン自体を趣味の一部とするアキバ系のユーザーなら十分に満足してくれるレベルまで来たと伊藤は判断したのである。まるで人間のように歌うVOCALOID2の「リアルな人間らしさを強調すればより多くに受け入れてもらえるはず」(伊藤)。

まるでアイドルのように

 こう考える伊藤の頭には,女性キャラクターのイラストをパッケージに描いて成功したMEIKOと,その陰に隠れた失敗があった。

 MEIKOで手応えを感じたクリプトン社は,VOCALOIDを使い,男性の声の歌声合成ソフト「KAITO」を2006年2月に発売していた。だが,KAITOは通常のDTMソフト並みの数百本しか売れず,MEIKOの実績から見ると明らかな失敗に終わっていた。

 この原因を伊藤は,「DTMユーザーのほとんどが男性だから」と結論付けた。特に,プロではない男性ユーザーを狙うなら,女性の歌声にしかニーズはない。彼らが欲しいのは自分に出せない声だからだ。

開発者の中心メンバーの一人であるクリプトン・フューチャー・メディア メディアファージ事業部の佐々木渉氏(写真:KEN五島)

 開発チームの佐々木はこう説明する。歌声を自由自在に扱えるVOCALOID2は,通常の仮想楽器ソフトより人間を連想させる。歌声合成ソフトとそのユーザーの関係は差し詰め,歌手とプロデューサー。歌手がかわいい声の女性ならプロデューサー役の男性のモチベーションが高まるはず。「聞き手にとっても女性の方がいい。日本の歌は恋愛ソングがほとんど。松田聖子の昔から,かわいらしさを強調したアイドルは人気が出る。歌が素晴らしくても歌手に華がなければ,聴いてもらえない」(佐々木)。

500人の声を聴いて選出

 「かわいい声の女性」「人間らしさ」「アキバ系の男性狙い」──。今までの経緯や開発者たちの考えをまとめて伊藤が打ち出したコンセプトから,佐々木らは,VOCALOID2を使った新製品にはアニメやマンガの要素を入れようと考えた。それがMEIKOのような歌手ではなく,声に特徴があるアニメ声優の起用につながる。考えてみると歌唱はVOCALOID2が担うので歌手にこだわる必要はない。歌声合成ソフトは,歌を歌うのが生業の歌手にとっていわば競合相手。出演に難色を示す歌手が多く,交渉が難航していたという事情もあった。

 問題は伊藤や開発スタッフの佐々木をはじめ,クリプトン社に誰一人として,アニメやマンガに詳しい人間がいなかったことだ。佐々木は「音楽やDTM分野なら皆,ひとかどのオタク。だが,アニメは全くの門外漢」と苦笑する。それでも仕方がない。佐々木らは頭を抱えつつ,ヒントを求めてアニメ雑誌や声優雑誌を連日,読みあさっていた。運命の入社面接が行われたのはそのころだった。冒頭で紹介したアニメやマンガに詳しい女性は,開発チームにとって,まさに救世主だった。  =敬称略

―― 次回へ続く ――