(前回から続く)

 ソニーの開発チームは,最高のパートナーに巡り合ったと言っていい。

 1988年11月。非接触ICカードを鉄道の自動改札機に導入することを目指し,ソニーは鉄道総合技術研究所と共同開発の契約を交わした。半年先の 1989年春をめどに,実験用のシステムを鉄道総研に納入する。研究所同士の取り決めとはいえ,将来性は目もくらむほどだった。開発が成功すれば,何百万人もの乗客を擁するJRグループを相手にビジネスが動き出す。

 それでも,開発チームを統括する伊賀章と,実際に技術開発を主導する日下部進の二人は,手放しでは喜べなかった。この開発は困難を極めると直感していたからだ。鉄道総研が求める非接触ICカードの仕様には,厳しい数字が並んでいた。いわく「1分間に60人通過」「メモリは数百バイト」「通信時間は 200ms」「改札での誤り率は10-5以下」…。

鉄道総合技術研究所が示した非接触ICカードの仕様

 中でも,実現が難しい要求仕様が二つあった。まず,読み取りのみならず書き込みも非接触でできるようにすること。さらには「通信距離を30cmまで保証する」という要求である。鉄道総研の開発責任者である三木彬生は,カードをポケットやカバンに入れたまま改札を通過できる仕組みを思い描いていた。今でいう自動車のETCのようなものである。

 30cmまでの通信距離を確保するには,宅配便向けに開発していたタグと同じく2.4GHz帯を使いたい。だが,2.4GHz帯の電波には弱点があった。到達距離が長い分,複数の改札機やカードが放出する電波が干渉し,信号を正しく送受信できなくなる恐れがある。しかも,2.4GHz帯の電波は人体に遮られる。混雑時には,あふれ返る乗客に阻まれ,改札機が動作しないかもしれない。

まずは読み出し専用の開発から

 楽天家の伊賀とて,何の勝算もなく共同開発に踏み切ったわけではない。開発に道筋を付ける,ある秘策を持っていた。

 鉄道総研との交渉と並行して,伊賀は別の用途の開拓も進めていた。オフィスへの人の出入りを管理するシステムである。ICカードを身に着けてドアの前に立てば,自動的にドアが開閉する。ICカードを持たない部外者や不審な人物を,不用意にオフィスに入れずに済む。

 伊賀がこの用途に目を付けた理由は,オフィス・ビルの建築ラッシュにあった。1988年当時,日本は好景気で沸き返っていた。幕張新都心に代表される新都市に,新たなオフィス・ビルが次々に立っていた。そこには必ず人々の入退出を管理するシステムの需要があるはずだ。