(前回から続く)
NECによるiモードの試作ボード
(写真:栗原克己)
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 じわじわと開発は遅れ始めていた。

「約束通りのスケジュールで進めていただかないと,困ります」

 ACCESSの開発担当課長である大城明子が眼光鋭く,きっぱりと言い放つ。回りくどい言い方をせず,ズバリと口に出すのが大城の身上だ。向き合った技術者は思わず身をすくめた。NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長の西山耕平。数万人の社員を擁する巨大企業を代表する立場であっても,小さなベンチャー企業の苦言に対し,沈黙をもって答えるしかなかった。

 ブラウザを搭載する携帯電話機の試作が始まってから,はや3カ月。試作が予定のペースで進んでいないことに大城は苛立っていた。決して西山1人を責めるつもりはなかった。作業が滞っているのはNECだけではない。

「実は松下さんも遅れているんです」

 こう西山に実際に告げられたら,少しは気が紛れたかもしれない。しかし,それはできない相談だった。大城はACCESSが松下通信工業と作業していると伝えることすら禁じられていた。ACCESSとNTTドコモとの守秘義務契約を自ら反故ほごにするわけにはいかない。

1カ月の半分はACCESS通い

 1997年11月中旬。NECの西山はACCESS本社に大城らを訪ねた。もう何度ACCESSに足を運んだか知れない。西山は,1カ月の半分以上をACCESSとの打ち合わせに費やしていた。

 松下通信工業が頭を悩ませたインタフェース仕様の策定に,西山らも骨を折った。画面への描画をつかさどるウインドウ・システムとブラウザの間のインタフェース一つを取っても,どこまでをブラウザに任せ,どこからはウインドウ・システムが担うのか,事細かに決める必要があった。そもそもそれまでの携帯電話機にはウインドウ・システムを使うという発想すらなかった。

 従来は電話帳の編集などの目的で搭載していた文字編集機能や仮名漢字変換機能を,ブラウザと連動させる必要もあった。こうした細部にわたった仕様の取り決めは,大城らの焦りをよそに遅々として進まなかった。西山らがACCESS本社へ足を運ぶ頻度は,開発が進行するにつれてむしろ増えた。

 仕様の策定はまだ序の口だった。ソフトウエアの実装に入ると問題はなおさら噴出した。ブラウザがNECの製品でないだけに,問題が発生した場合の対処も社内の人間を相手にするのと勝手が違う。電話では用が足りず,実際に会って話を進めざるを得なかった。

 不慣れな開発スタイルも西山らを苦しめた。これまでは,組み込み機器向けのソフトウエアの開発にはICE(in-circuit emulator)を用いることが普通だった。ACCESSとの共同開発では,両者で並行して作業を進められるように,ICEの代わりにパソコン上で動くエミュレータを使うことにした。西山の部隊の人間が1週間にわたってACCESSに常駐し,開発環境が安定して動作するようにシステムを整備した。

 ところがエミュレータ上で開発したソフトウエアが実際のハードウエアで正常に動かない。原因をICEを使って検証するなど,かえって手間が増えてしまう場合も少なくなかった。ブラウザ以外のソフトウエアはICE上で開発を進めており,異なる環境で作られたソフトウエアがうまく連携しない問題にも直面した。障害が起こるたびに西山らは,指定されたスケジュールと現実の進捗状況のギャップに暗澹たる思いに駆られた。

今,楽をするよりも…

 冬の気配が感じられ始めたある晩,ACCESSの取締役副社長 研究開発担当の鎌田富久は自室に社内の担当者を集合させた。出席者はPDAやカーナビ,携帯電話機など,あらゆる機器に共通するブラウザの根幹を設計する技術者と,大城や笛木一正ら携帯電話機への実装の担当者だった。

「実は,相談があるんだ。Compact NetFront Browserを長く使えるアーキテクチャにするために改良を加えたい。最新のノウハウをできるだけ詰め込みたいと思っているんだけど,どうかな」

 鎌田の発言は,完全に参加者の意表を突いた。皆沈黙を保ったままだ。無理もないことだった。大城ら実装メンバーからしてみると,既に試作が始まっている段階で新たな改良を加えることは,できれば避けたいリスクだからだ。

「例えばね,将来的にJavaが携帯電話機に載る可能性があると思う。だったらプラグインを追加できる機能を今のうちに盛り込んだ方がいいんじゃないか」

 鎌田はメンバーに対し,新たに盛り込みたいと考える機能を一つ一つ説明する。低速の通信回線において少しでも早くコンテンツを表示するため,HTML文書の読み込みと並行して構文解析を実行する機能や,移植を楽にするためにドライバ・インタフェースを整理することなども提案した。

「試作が随分進んでいるのは分かっている。でも将来の機能拡張を容易にするには今の段階で手を入れておいた方がいいと思う。実は僕のパソコンでプロトタイプが動いてるんだ。本当にできそうなんだよ」

 鎌田はいずれのメンバーもギリギリのスケジュールで頑張っていることを知っている。これ以上,不安材料を増やすことは,短期的に見れば得策ではないかもしれない。鎌田にも迷いがあった。

「作業は既に遅れ気味です。新しい機能の追加なんて無理です」
 大城が意を決して口にした。

 当然のひと言に,鎌田は返す言葉を失った。部屋いっぱいに重苦しいムードが漂う。そのとき突然,1人の男が手を挙げて発言した。

「私は,今ならまだ改良の時間はあると思います」

 ブラウザの基盤設計を担当する加藤順一だった。彼の顔にも不安の色がうかがえた。それでも,一度言ったからには絶対やり遂げようとの気合いが表情ににじんでいる。鎌田は居並ぶメンバーを見渡した。連日の作業の疲れがたまっているはずなのに,誰の目も輝きを失っていなかった。

「うん,僕もそう思うんだ。やろうよ。今,楽をしないで,将来につながる道を選択しよう。責任は僕が取る」

 加藤のひと言に肩を押され,鎌田は決断した。

ハムレットの心境

 試作に携わる技術者たちの葛藤の傍ら,NTTドコモは着々とiモードのサービス・インに向けた足固めを続けていた。1997年11月28日。同社はパケット通信サービス「DoPa(DoCoMo Packet)」の提供エリアを1997年度末までに関東甲信越と全国政令指定都市に拡大すると発表した。いわばiモードに使うデータ通信網を全国に拡張する第一歩である。同社でゲートウェイビジネス部を率いる榎啓一が描いたプランは確実に形を成してきていた。

 インフラの拡充と歩調を合わせ,端末の開発も新たなフェーズに入りつつあった。それまでNECと松下通信工業が手掛けてきたのは,あくまでも技術を検証するための試作機である。携帯電話機の上でブラウザが動作することを確かめるのが目的で,製品の開発とは別物だった。

 1997年の終わりを前に,NTTドコモはいよいよ製品の開発に踏み出そうとしていた。当初の計画通り1998年のクリスマス・シーズンにサービスを開始するには,そろそろ開発に着手しなければ手遅れになる。

 この期に及んでも,事業全体を統括する榎にはまだ懸念があった。サービスの根本に据えるコンテンツの記述言語をACCESSが推すCompact HTMLに一本化していいのか,正直決めかねていたのである。Compact HTMLと対立するWAP ForumのHDMLに関心がなかったといえばウソになる。その実力を探るべく,榎は1997年12月に夏野剛や端末メーカーの技術者から成る調査団を,米国サンフランシスコに派遣したほどだ。HDMLを利用した「PocketNet」と呼ぶサービスを米AT&T Wireless社がサンフランシスコ近郊で実施していたのだ。

 夏野らの報告によれば,HDMLにはまだまだ改善すべき点は多いようだ。それでも,フィンランドNokia社を筆頭に世界の名だたる携帯電話機メーカーが顔をそろえるWAP Forumの影響力は計り知れない。折悪しくCompact HTMLを強力にプッシュした永田清人は,第3世代携帯電話機の開発部隊に異動してしまった。社内には研究所を中心に,WAPこそが標準になるとのムードが蔓延しつつあった。

 「一体どちらを選ぶべきか。まさにハムレットの心境でしたよ」。榎は当時をこう振り返る。

新たなる参加者

 1997年末。東京・虎ノ門のNTTドコモ本社。榎は,富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)の片岡慎二を前にしていた。

「実は新しい携帯電話機の企画があるんですよ」

片岡慎二氏
富士通 移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二氏
(写真:桑原太門)

 榎のひと言に,片岡は身を乗り出した。

「ネットにつながる携帯電話機です」

 榎は,既に心を決めていた。1年後のサービス開始に向け,Compact HTMLを利用する製品の開発を後押しする役目を買って出たのである。スケジュールを遵守するには,事実上Compact HTMLを使うしかない。若干遅れ気味とはいえ,Compact HTMLを使う端末は既に試作が進んでいる。夏野が牽引するコンテンツの開発グループの評判も上々だ。後は榎が腹をくくるだけだった。

 実際の製品化となれば,NECと松下通信工業の2社だけではあまりに寂しい。他の端末メーカーを巻き込むべく,榎自ら乗り出した。その1社が富士通だった。榎は携帯電話機にブラウザを搭載し,コンテンツを配信する企画があることを片岡に告げた。

「これまでは,PDAに携帯電話機をつないでWWWサイトを見るっていう発想だったでしょ。でもそれだと携帯電話機の販売台数がそれほどは伸びない。今はPDC機が絶好調だからいいけれど,これがいつまでも続くとは思えない。でも携帯電話機そのものがネット端末に変われば話も変わる。ものすごい数で売れると思いますよ」

 榎の目が輝く。

「ACCESSって会社,ご存じですか」

「ええ,知ってますけど…」

「ぜひ一度,会ってみませんか」

 榎は片岡に,1998年冬のボーナス・シーズンには製品を発売したいと伝えた。

「じゃ,よろしく」

 榎はこう言って立ち上がり,ポケット・ベルを片手に広末涼子が微笑む1998年のカレンダーを,あいまいな表情を浮かべる片岡に手渡した。

間に合わなければ置いていく

 1997年の末。大阪・尼崎にある三菱電機の携帯電話機開発部門。同社 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長の濱村正夫に営業部門から1本の電話が入った。NTTドコモから連絡を受けた営業担当者からだった。電話口の向こうで,営業担当者はNTTドコモの意向を淡々と伝える。ブラウザを搭載する携帯電話機の開発の企画があるという。通信方式はパケットだと聞いて,濱村はとっさにつぶやいた。

「パケットか……」

濱村正夫氏
三菱電機 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長(当時)の濱村正夫氏
(写真:周慧)

 濱村は武者震いした。汚名を返上する絶好のチャンスだ。三菱電機はNTTドコモが全国へ展開中のDoPaに対応する携帯電話機を手掛けていた。しかし開発が遅れに遅れ,NECと松下通信工業に製品化で先を越された。その開発を担当していたのが濱村だった。

「パケット技術で今度こそ他社に勝ちたい。ぜひやらせてください」

 早速濱村は上司に嘆願した。しかし,上司の反応は冷ややかだった。「ブラウザを搭載した携帯電話機に,一体どのくらいの将来性が見込めるのか」。そのひと言で済まされてしまう。もう1つ,濱村の足かせになる要因があった。予算だ。既に1997年は終わりを迎えようとしていた。開発が本格化する来年度の予算は,その大枠が固まりつつあった。今更予算を組み直すことなどできない。新たな案件向けの開発費の捻出なんて,どだい無理な話だ。

 濱村は粘った。どうしてもやりたかった。誰も試みたことがない開発と聞けば,なおさら技術者の血がたぎった。

「来年度,携帯電話機を予算以上に売ってみせます。予算を上回る売上高を見越して開発費を使わせてください」

 濱村は,ブラウザを組み込んだ携帯電話機の将来性に魅力を感じた営業担当者とともに,再び上司に願い出た。いわば開発費の前借りである。しかも担保は単なる口約束。そんな突拍子もない資金繰りが,社内のルールで通るわけがない。無茶な理由付けだと濱村も分かってはいたが,ほかに上司を説得する理屈が見当たらなかった。

「そんな無謀なことができるわけないだろ。仕方ないな。そんなにやりたいのなら,まぁ何とかするよ」

 濱村らのあふれんばかりの熱意と強引な説得に対し,上司は苦笑いを浮かべて降伏した。

 濱村をここまでさせた理由は,実はもう1つあった。社内で聞きかじった話だ。今回の企画を持ち掛けたNTTドコモは三菱電機に大きなプレッシャーをかけたという。開発に参加するメーカーは,実は4社ある。その中で最後発は三菱電機と名指しされた。他社がスタートを切ったのはしばらく前で,かなり出遅れているらしい。それでももし,発売に間に合わなければ,他社の販売を優先し,三菱製品は置いていくとNTTドコモの担当者は暗にほのめかした――。

 この話を聞いた濱村は,腹の底からふつふつとわいてくる闘志を抑えることができなかった。

=敬称略

―― 次回へ続く ――