(前回から続く)

 1997年11月4日。NTTドコモは移動体電話に向けて「040」で始まる新しい電話番号を提供すると発表した。これまで「010」「020」「030」「080」と番号を増やしてきたが,加速度的に普及する端末台数に,またしても番号が追い付かなくなった。

 目覚しく成長を遂げる携帯電話事業の水面下で,NTTドコモは後の「iモード」に打って出る準備を着々と進めていた。ACCESSの「Compact NetFront Browser」を搭載する携帯電話機の試作を9月に開始して以来,永田清人らが属するNTTドコモ 移動機技術部には,NECと松下通信工業の担当者が週に数回,足を運ぶようになった。その中に関西弁を操る小柄な男がいた。大阪の研究所から急遽東京行きを命じられた松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 主席技師(副参事)の田中康宣である。

助っ人登場

「コンテンツが見えてきまして…」

NTTドコモ本社

 NTTドコモ 移動機技術部の担当者が,図や表をちりばめた極秘資料を差し出す。東京・虎ノ門 新日鉱ビルのNTTドコモ本社。田中は松下通信工業 パーソナルコミュニケーション事業部 開発技術部 ソフトウェア2課 係長(主事)の加藤淳展とともに,打ち合わせのテーブルを囲んでいた。

 田中に手渡された資料には,ネット・バンキングやニュース配信,航空券のチケット予約といった,具体的なコンテンツが示されている。電話機の試作が始まった時点とは桁違いの詳細な内容だ。猛スピードでコンテンツの青写真が明らかになってきたのには訳がある。NTTドコモ ゲートウェイビジネス部に,ベンチャー企業の副社長としてインターネット関連ビジネスの最前線でもまれてきた夏野剛が加わったのだ。

「うーん,なるほど…」

 田中は資料をめくる。それぞれのコンテンツについて,ユーザーがどのようにページをたどっていくのかが詳細なフロー・チャートでまとめられている。ただし,図表が示す手順はいまだアイデアの域を出ず,技術的に詰めなければならないことが山ほどあった。田中の役割はNTTドコモが定めた仕様に対してコメントを述べることだった。

話すより見せたほうが早い

 一度うなったきり,黙々と資料を読んでいる田中を,加藤はちらりと見る。

「田中さん,どうしたの?」

 加藤の心配そうなつぶやきに,同席者も田中の顔を盗み見た。移動機技術部の担当者が資料の図を指す。

「企画部隊によるとですねぇ,コンテンツ・メニューのトップに来たら,まずユーザーが獲得したポイントの合計を表示したいんだそうです。いったん,ポイントをサーバから読み出して表示して,その次にメイン・メニューに画面を自動的に切り替えます。この場合,携帯電話機とサーバはどうやりとりをしたらいいか,ご意見を頂きたいんです」

 移動機技術部の担当者が資料を指さしたままで田中の顔を見た。

「そうですねぇ,うーん」
 田中は口ごもる。見守る加藤の額には汗がにじんできた。

「ほんまは,こんなんは…」
 一同の視線が田中にくぎ付けになる。

「口で言うより書いた方が早いですわ」
 おもむろに立ち上がった田中は,ホワイト・ボードに文字列を書き始めた。

「自動的にページを切り替えたいんであれば,何秒後かに指定したページにジャンプするという命令をHTMLで書いてあげたらいいんですよ。えーっと…」

 みるみるうちにホワイト・ボードは横文字の群れに埋め尽くされる。室内にはペンが走る音だけが響く。

「こんな感じですかねぇ」

 田中はペンのキャップを締めた。一同,開いた口がふさがらない。その内容がようやく頭に染みとおると,同席者からは滝のように質問が流れ始めた。

「そうすると次はですねぇ,『マイメニュー』というのが出てきます。これはユーザーが気に入ったコンテンツをブックマークできる機能なんですが…」

 NTTドコモの担当者は一つ一つ,資料の上のフロー・チャートに従って説明を続ける。企画部隊が考えているコンテンツは,ユーザーに対して,一方的に配信するものだけではない。位置情報サービスやアンケートといった,ユーザーの携帯電話機とサーバが何度も命令をやりとりする必要があるコンテンツもある。このペースで話を進めていては,時間がいくらあっても足りないと,田中は焦り始めた。

「うん,分かりました。次の打ち合わせまでに,この資料にあるコンテンツを実際にHTMLで書いて持ってきます。それを見ながら話した方が早いんやないかと思います。それと,ネットワークの稼働状況を説明するために,パソコン上でシミュレーションできるソフトも用意させてください」

 田中は長時間の議論に火照った表情のまま,ようやく腰を下ろした。

突然の電話

 東京・水道橋のACCESS本社。取締役副社長 研究開発担当の鎌田富久は机に向かって,大城明子や笛木一正ら実装部隊からの報告書に目を通していた。

 社員50人の小さなソフトウエア開発ベンチャーであるACCESSにとって,今回の試作プロジェクトは主力製品の組み込みブラウザを一気に普及させる千載一遇のチャンスだった。携帯電話機にブラウザを載せるという誰も経験したことがない作業は,決して楽ではなかったが,大城と笛木の大車輪の活躍でどうにかスケジュール通りに進んでいた。

 突然,電話のベルが鳴り出した。電話の主は永田である。話したいことがあるので東京・虎ノ門の新日鉱ビルに来てほしいという。てっきり試作の打ち合わせだと思っていたが,それは鎌田の大きな勘違いだった。鎌田を待ち構えていたのは,プロジェクトが始まって以来の巨大な誤算だった。

永田清人氏
(写真:栗原克己)

思わぬ誤算

「突然で申し訳ないんだけど,秋の人事異動で担当を変わることに…」

 NTTドコモ本社の一室。永田は鎌田や移動機技術部の担当者が集まった場でつぶやくような声でポツリと語った。

「……」

 鎌田の顔は蒼白に変わる。

「千葉と申します」

 永田の隣に座っていた男が立ち上がって頭を下げた。永田の後任として試作プロジェクトを担当する千葉耕司だ。

「あ,初めまして。鎌田です」

 ぎこちなく腰を上げた鎌田は,動揺を悟られないよう,ありったけの笑顔を浮かべて名刺を交換する。

 永田が単に試作プロジェクトの総責任者というだけだったら,鎌田はここまで打ちのめされなかっただろう。6月25日にCompact NetFront Browserを提案して以来,ACCESSの技術力を一番評価してくれたのが永田だった。決断が早く,的確な指示を与えてくれる永田がいたことで,どれだけ作業がやりやすくなったか知れない。

「一番気心が知れていた永田さんがいなくなるなんて…」

 鎌田は登っていたはしごを突然外されたような宙ぶらりんの状態に置かれた。NTTドコモとの仕事が決まった時,技術を吸い取られて捨てられる危険と背中合わせだと鎌田に忠告する第三者がいた。鎌田は永田と付き合っている中で,こうした不安を感じたことは一度も無かった。巨大企業の一員でありながら,小さなソフトウエア開発会社のACCESSに常に対等な関係で接してくれた永田に,鎌田は尊敬の念すら覚えていた。

「永田さん…。これまで僕らが話してきたことはどうなるんですか」

 目の前で黙って座る永田に,鎌田は心の中で問い掛けた。鎌田にとって気掛かりだったのは試作の行方だけではない。Compact NetFront Browserと対になった記述言語であるCompact HTMLの標準化も,永田の協力なくしては,暗礁に乗り上げる恐れがあった。

鎌田富久氏
(写真:栗原克己)

 今回の試作が決まった日,鎌田はCompact HTMLをインターネットの標準化団体であるW3C(World Wide Web Consortium)に提案したいと持ち掛けた。この提案の根底に流れる発想は,永田の信念とピタリと一致した。NTTドコモのコンテンツ配信ビジネスの成否は,どこまで多種多様のコンテンツを用意できるかに懸かっている。そのためには,コンテンツ・プロバイダーが使いやすい記述言語が必須になる。既に普及しているHTMLのサブセットであるCompact HTMLは,候補として不足はない。加えて世界標準規格として認知されれば,まさに鬼に金棒だ。

 鎌田は標準化のメンバーに何としてもNTTドコモを引きずり込みたかった。同社に名を連ねてもらえれば,間違いなく強い冠になる。標準化に同調してくれた永田がいなくなると,こうした目論見がすべて泡沫に帰すのではないか。鎌田は心配でたまらなかった。

 鎌田は永田の心境をこの場で聞きたいと思った。しかしあえて口をつぐんだ。永田も心苦しく思っていることが,鎌田には痛いほど分かったからだ。

「それで,これからのことだけどね…」

 永田は小さな声で切り出した。永田が次に担当する業務は,W-CDMA方式を使った次世代携帯電話機の開発だという。今後の試作には支障がないように引き継ぐと永田は低い声で説明する。呆然とする鎌田の耳に,その言葉はほとんど届いていなかった。

後ろ髪を引かれる思い

 永田は,矛盾する思いの狭間で苦しんでいた。次世代携帯電話機の開発は,NTTドコモの将来を左右する大仕事である。技術者としてこれほどやりがいのある仕事はめったにない。一方で現在の仕事に後ろ髪を引かれないといえば嘘になる。Compact NetFront Browserを搭載する携帯電話機の試作を最後まで見守りたいと誰よりも強く願っていたのは他ならぬ永田自身だった。

 記述言語の標準化の行方も気に掛かった。2カ月ほど前の9月15日。スウェーデンEricsson社と米Motorola社,フィンランドNokia社,米Phone.com社(前Unwired Planet,Inc.)が,Wireless Application Protocol(WAP)と呼ぶ仕様をWWWサイト上で公開し始めた。独自の記述言語HDMLを使う携帯電話向けのコンテンツ配信技術である。日本独自のPDC方式を採用したことで世界から孤立したとの批判を受けるNTTドコモの社内では,海外の大手携帯電話機メーカーが採用するWAPを推す声が日増しに高まっていた。

 そんな逆風の中で永田はCompact NetFront BrowserのようなHTMLブラウザを採用すべきだと一貫して訴え続けてきた。WAPは所詮,携帯電話の世界でしか通用しない限定された仕様。パソコン等で幅広く利用されているHTMLこそ,本当の意味での標準だ。永田はこの信念を一度も曲げなかった。

 永田の強い意志が表れた出来事を,NTTドコモ ゲートウェイビジネス部の榎啓一は目撃している。

「WAPの将来性には疑問が残る。HTMLブラウザ以外に考えられない」

WAPを推す上司に対して,永田はこう声を荒げて反論したという。

 永田は自らCompact HTMLの標準化を後押しするつもりだった。9月にはフィンランドに飛び,世界最大の携帯電話機メーカーを標準化メンバーに招き入れようと説得を試みたばかりだ。目の前にいる鎌田に現地から電話で相談したことを,永田は鮮明に思い出した。

――「なんで言い出しっぺがいなくなっちゃうんだよ」

 異動が明らかになった後,榎は永田にこう声を掛けた。榎にしてみると,残念さと労をねぎらう気持ちが相まって,思わず口をついて出た言葉だった。

 永田には返す言葉が無かった。

原点に立ち返る

 東京・水道橋のACCESS本社。自室にこもった鎌田は机の引き出しから1枚の名刺を取り出してぼんやりと眺めた。名刺の表には「Unwired Planet」とある。鎌田にはこの名刺にまつわる苦い思い出があった。

1枚の名刺
(写真:的野弘路)

 1997年6月18日。鎌田はNTTドコモに接触する以前から,Compact HTMLの標準化に向けて活動を始めていた。この日,W3Cの代表者会議が東京・品川で開催された。鎌田は「Embedded WWW」と題して,携帯電話でインターネットにアクセスする方式について語った。講演が終わると,1人の男が挨拶に訪れた。この男が差し出したのが,今手元にある名刺である。

「とても参考になりました。でも,ワイヤレスの世界は特殊ですよ。HTMLブラウザでは難しいんじゃないですかね」

 こう言い残し,男は去っていった。携帯電話向けのコンテンツ配信技術を売り込むUnwired Planet社の存在を,当時の鎌田は知らなかった。売り込み先の1つがNTTドコモだと知ったのは,随分後のことだった。

「もう時間がない」

 永田を失った衝撃を振り払うかのように鎌田はつぶやいた。鎌田の心にはもう1つの苦い経験が浮かんでいた。インターネット・テレビ向けの記述言語の標準化を試みた時のことである。鎌田は米国でサービスを展開するWebTV Networks,Inc.と組んだ方が得策と踏んだ。これが失敗のもとだった。両社の思惑の調整に手間取り,仕様が決まった時には既に陳腐化していた。「待ちの姿勢」が災いしてタイミングを逸したことを,今更のように鎌田は後悔した。

「永田さんがいなくなったことをどんなに嘆いても先には進めない」

 鎌田は決意を新たにした。

東京・新橋
(写真:的野弘路)

発売まであと1年

――ゴロゴロ,ガチャン。

「あかん,壊れてもうた」

 11月の東京・新橋。松下電器産業の田中らは新橋駅の前を歩いていた。田中は自前のノート・パソコンとプリンターをぎゅうぎゅうと押し詰めた旅行用カートを引いていた。あまりの重さにカートが耐え切れず,往来の真ん中で車輪が突然外れてしまったのだ。

「ほんま,ついてへんなぁ」

 田中はひざを突いて車輪を調べる。2人はこれから地下鉄で虎ノ門のNTTドコモ本社に行かなくてはならない。前回の打ち合わせから数日。田中はホテルにこもってNTTドコモから示されたコンテンツをHTMLで記述した。

 壊れたカートを前にして田中は途方に暮れた。ノート・パソコンとプリンターは会議の必需品だ。HTMLの話は口で説明するよりその場で印字して見せたほうが早い。

「あそこでカートを買い替えよう」

 加藤はこう言い,田中と小走りで目の前にあった量販店の「キムラヤ」に飛び込んだ。田中は新品のカートを選んでレジに並ぶ。

「やっぱり安物はダメやな」

 田中はこう言って笑った。加藤もつられて顔をほころばせる。

 加藤がふと店頭に目をやると,店員が気の早い「クリスマスセール」の飾り付けをしていた。NTTドコモからは1998年のボーナス・シーズンにはブラウザを搭載した製品を発売する計画と聞いている。

「あと1年しかない」

 加藤の顔から笑いが消えた。

=敬称略

―― 次回へ続く ――

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