(コラージュ:松本毅)

シャープが開発していたカメラ付き携帯電話機。フレキシブル基板の不良など数々のハードルを乗り越え,開発スタッフはようやく試作機を手にする。早速試し撮りを敢行してみたが,その画像は想像を上回る「きたなさ」だった。

 2000年8月下旬。シャープ 天理事業所のカメラ・モジュール開発スタッフは,その「きたない絵」について出口のない議論を続けていた。

「この絵,もう少しどうにかならんのか。小山さん,あんだけCMOSセンサのノイズ消すのに苦労してたのに。こんな絵やったら,ノイズなんかあってもなくても同じや」

「まあ,そうでもないやろ。送った絵をパソコンで見たら,一発で分かるわ。しかし,この256色表示のディスプレイに人の顔を写す,いうのはさすがに厳しいな。幕張の諏訪さんと竹田さんが頑張ってくれたと聞いたけど,元が256色じゃあ,限界があるわな」

「まあ,それはそうやけど,もともと広島が作りたかったんは『持ち歩くプリクラ』やろ? プリクラなら,こんなもんでええんやないの」

「けど,けっこうきたないで」
「………」
「こんなんで,ほんまに売れるんやろうか。どう思う?」
「………」

 広島のパーソナル通信事業部が説明した「持ち歩くプリクラ」という製品コンセプトは,頭ではしっかり理解できていたつもりだった。そのコンセプトからすれば,製品の画質は十分なものだといえるだろう。だが,実際にその絵を見て,自信を持って「これはいける」と答えられる人は誰一人いないのだ。発売を目の前にして,天理のスタッフの不安はますます募っていった。

 何しろ「1日1万台」と,協力工場や部品納入メーカーにも大見得を切った製品なのだ。彼らだって,相当期待しているはず。それを裏切ることになったら…。休憩スペースは重苦しい空気に覆われていた。

「暗くて写らん」

発売を迎えたカメラ付き携帯電話機「J-SH04」
発売を迎えたカメラ付き携帯電話機「J-SH04」
J-フォン・グループが,2000年10月末に発売した。シャープ製の前機種の発売時期からわずか半年しか経っていない。(写真:シャープ)

 「J-SH04」の企画/製造を担当した広島のパーソナル通信事業部にも,試作機を使ってみたという社員から厳しい声が届き始めていた。

 主な苦情は,天理のスタッフにも不満が出ていたディスプレイの表示色数と,カメラ・モジュールの感度である。

 ある役員は,銀座のクラブで写した画像が真っ暗だったと電話越しに苦情を寄せた。「せっかく自社製品を宣伝しようと思うてな,お店の人も集めてみんなで撮ったのに。真っ暗で何にも写っとらんやないか。おかげで,えらい恥かいたわ」。明るい屋外で撮影するときは,カメラの感度は全く問題にならない。だが,屋内,特に照明を落とした飲食店で撮影するには,どうも感度が低すぎるようだ。

 山下晃司らパーソナル通信事業部の開発スタッフにすれば,このような指摘があることは承知の上だった。感度に関しても,カラオケ・ボックスや居酒屋に照度計を持ち込んで試し撮りをしていたから,カメラの能力に限界があることも重々分かっていた。

 かといって,ディスプレイやカメラの完成度を上げる意思がなかったわけではない。だが今回は,何より他社に先行することを優先したかったのだ。まず「従来製品とサイズが全く変わらないカメラ付きケータイ」を投入してシャープ製品の認知度を上げ,次のステップで性能を追求する。その割り切りこそが今回の戦略なのだ。

 社内から寄せられる不安の声には,強気一辺倒で答えた。「大丈夫です,この大きさにカメラを載せた製品はほかにありません。間違いなく注目を集めますから。しかも,品質を上げるための手はもう打っていますし」。しかし,こうも不安の声が多いと,山下の自信も揺らいでくる。とにかく後継機種の開発を急ごう。幕張の画像処理チームに進捗状況を聞いてみるか。

「もしもし,諏訪さん? あ,山下です。いや今回の製品ね,思った以上に画質に対する不満が多いんですよ。次の機種では,何としても見返してやりましょうよ。次は6万5000色のディスプレイを載せるって伝えてましたよね」。

 意気込んでみせる山下。たが,諏訪昭夫の声は沈んだままだ。彼はかつて,テレビ電話の開発に従事した経験があった。だが,せっかく売り出した製品はさっぱり売れず,諏訪はさんざん苦汁をなめた。その当時のことが,何度も脳裏をよぎる。

「山下さん,次って…本当にあるんでしょうか。もしこの製品がコケたら…」。

 確かに,1歩目でコケたら,2歩目はない。山下の不安は,いよいよホンモノになってきた。

―― 次回へ続く ――