液晶を使って薄型ディスプレイを実現できる―。今からさかのぼること40年以上も前の1968年5月,米RCA社が米国ニューヨークで開催した液晶ディスプレイの記者発表は,世界をあっと言わせた(図1)。液晶が表示に使えることを発見したのは,RCA社のGeorge Heilmeier氏である注1)。同氏は,「夢の壁掛けテレビも,ほんの数年で実現する」と言ってのけた。これをキッカケに,日本・英国・スイス・ドイツのディスプレイ研究者が液晶開発に一斉に参入し,世界的な開発競争の幕が切って落とされた。

【図1 壁掛けテレビを目指して世界が動いた】1968年の液晶ディスプレイの発表は,世界中のエレクトロニクス技術者に衝撃を与えた。40年後には,液晶は10兆円産業に成長することになる。
図1 壁掛けテレビを目指して世界が動いた
1968年の液晶ディスプレイの発表は,世界中のエレクトロニクス技術者に衝撃を与えた。40年後には,液晶は10兆円産業に成長することになる。
[画像のクリックで拡大表示]

注1) Heilmeier氏は,ネガ型液晶を2枚の透明電極で挟んで電圧をかけると,液晶が散乱状態になり白く反射することを発見した。このDSMの発明によって,液晶は表示装置に使われるようになった。ただ,同氏ひとりでは,DSMは発見できなかったと考えられている。DSMの発明に大きく寄与しているのが,RCA社のDick Williams氏による,1962年の“ウイリアムス・ドメインの発見”である。同氏は,ネガ型液晶を2枚の透明電極で挟んで電圧をかけると,特有のパターンを示すことを発見した。同氏は「これを活用することでディスプレイを作れるのではないか」と考え,1962年に特許を出願した。その特許には,XYマトリクス型のデバイス構造が示されている。さらに,この表示素子がテレビにも適用できると,同氏は記載している。なお,液晶という物質を発見したのは,オーストリアの植物学者Friedrich Reinitzer氏である。同氏は1888年,植物から採取した液体が145~179℃の範囲で白く濁る現象を発見した。液晶テレビの本格普及には,それから約120年かかったことになる。

液晶テレビへ,4段階で進化

 しかし,液晶ディスプレイの実用化は容易ではなかった(図2)。当時は寿命や信頼性といった基本的な問題が解決できておらず,1時間もたたずに表示は消えてしまう。ましてや,テレビ応用のメドは全く立っていなかった。

図2 液晶ディスプレイは4段階で進化
図2 液晶ディスプレイは4段階で進化
1968年に発表されたDSM液晶は,そのままでは実用化できなかった。そこで,交流駆動,TNモード,STNモード,TFTによるアクティブ・マトリクス駆動を導入し,基本性能を高めていった。

 寿命・信頼性の問題の原因は,液晶に直流電圧を印加することにより,液晶材料や電極が酸化・還元されて変質することにあった。交流駆動すればよいが,そうすると表示性能が不十分だった。これを解決したのがシャープである。同社は,液晶材料にイオン性不純物を入れ,導電率が高くなると,交流駆動で良好な表示特性が得られることを発見した注2)。これが,世界初の液晶応用製品となる「液晶電卓」の製品化の決め手になった注3)

注2) この発見は偶然の産物だった。ふたを閉め忘れた試薬瓶に入っていた液晶材料が,交流駆動で良好な表示特性を示したのだ。

注3) 1973年5月,シャープは液晶ディスプレイを表示素子に使用した小型電卓「EL-805」を発売した。

 RCA社が発表し,シャープが電卓に採用した液晶ディスプレイは,現在主流のTNモードではなくDSM(dynamic scattering mode)だった。ただ,DSMを使って液晶テレビを実現することは難しかった。DSMでは,ドット・マトリクス表示の走査線数の本数に限界があったからだ注4)。この問題を解決する突破口となったのが,1971年に発表されたTN(twisted nematic)モードである注5)。TNモードでは,液晶は光シャッターの役割を果たす。電界で液晶分子を動かすことにより,光をオン/オフする。この動作原理は,現在のほとんどの液晶ディスプレイに使われている。

注4) 1976年に,DSM液晶によるドット・マトリクス表示パネルが通商産業省(現・経済産業省)のプロジェクトとして試作された。この40×50cm2の液晶パネル試作から,走査線の本数に限界があることが分かった。

注5) TN液晶は,ドット・マトリクス表示の走査線数の増加だけではなく,セグメント表示の低消費電力化にも貢献した。動作原理上,それまでのDSM液晶では微小なイオン電流を流し続ける必要があったが,TNモードではその必要がなくなった。このTNモードによって,腕時計の表示にも液晶が使えるようになる。DSM液晶では電池が1年程度しか持たなかったのに対して,TN液晶では少なくとも5年は持つようになった。1973年10月には,世界初のTN液晶の応用製品となる液晶腕時計を,諏訪精工舎(現 セイコーエプソン)が発売した。

 このTNモードの開発に携わったのが,RCA社とスイスHoffmann-La Roche社で液晶を研究していたWolfgang Helfrich氏とRoche社のMartin Schadt氏,そして米国のJames Fergason氏である。Helfrich氏とSchadt氏の二人は,1970年12月4日に特許を申請し,1971年2月には「Applied PhysicsLetters」に論文を発表している。このHelfrich氏らの特許と同時期に米国でFergason氏が同じアイデアを考案しており,両者間で壮絶な特許権の争いが起きた。Fergason氏の特許申請はHelfrich氏らの申請の4カ月後だったが,米国では先発明主義を取っているために,複雑な議論になったのである。激しい争いの末,Fergason氏は世界中の特許権をRoche社に譲渡している(詳細は,「液晶ディスプレイ誕生秘話(第3回)現在の液晶ディスプレイの原型『TNモード』の誕生」を参照)。

 TNモードによってドット・マトリクス表示の走査線数は格段に増えたが,それでも走査線を60本前後まで増やすと,画像が崩れてしまった。この理由を最初に解明し,解決策を提案したのが,日立製作所の川上英昭氏である。同氏は,走査線の最大本数は電圧─透過率曲線の立ち上がりによって決まることを示した。これを受けて,電圧─透過率曲線の立ち上がりを急峻にする競争が始まった。そして生まれたのが,液晶のねじり角をTNの90度から270度に大きくしたSTN(super twisted nematic)モードである。1982年に英Royal Signals and Radar Establishment(RSRE)が発見し,1985年にスイスBrown Boveri社(BBC)が走査線数135本のSTN液晶ディスプレイを試作した注6)

注6) 最初にSTNモードを発見したのは,英Royal Signals and Radar Establishment(RSRE)のCollins Waters氏とPeter Raynes氏である。ただ,Waters氏らがディスプレイを作ってみると,思い通りのコントラストが出なかった。STN液晶ディスプレイで高コントラストを実現する手法を見いだしたのが,スイスBrown Boveri社(BBC)のTerry Scheffer 氏とJürgen Nehring 氏である。具体的には,入射側の偏光板を通常の方向から+30度回転させ,さらに出射側の偏光板を通常の方向から+60度回転させる。

 しかし,STNモードを導入しても,液晶テレビを実現することは難しかった。STNには,コントラスト比が低く,細かい階調を表示しにくいという問題があった。そのブレークスルーとなったのが,各画素をTFT(thin film transistor)で制御するアクティブ・マトリクス駆動である注7)。それまでの単純マトリクス駆動とは違い,各画素を独立に制御できる。このため,周囲の画素に影響されるクロストークを防ぎ,高いコントラスト比や細かい階調表示が可能になった。

注7) アクティブ・マトリクス駆動のディスプレイを最初に提案したのは,RCAのDavid Sarnoff研究所のBernie Lechner氏である。1973年には,米Westinghouse Electric Corp.のPeter Brody氏がCdSe TFTを使ったアクティブ・マトリクス駆動の無機ELディスプレイを試作した。