1996年,日経メカニカルの副編集長だった私は,シンガポールに駐在していた。円高の影響で家電はじめ日本のセットメーカーが次々と東南アジアに工場を移し,当時の社長が「工場が東南アジアに行くのなら,それに付いて日経メカニカルも支局を東南アジアに設けたらどうか」と指示。当時の編集長の命で,支局開設準備のために長期にシンガポールに出張していたのだった。

マレーシアで働く日本人成形技術者

 そんなある日,私はマレーシアのクアラルンプール近郊の日系家電メーカーの工場を取材した。そこで製造しているテレビの筐体が近くの現地の成形メーカーで作られていると聞いて,その場で電話してもらい,現地の成形工場を訪問した。最初,応対していただいたのは中国系マレーシア人の社長だった。ガスアシスト成形という,当時では比較的難しい成形技術を使っていたので,「成形技術はどうやって導入したのですか?」と聞くと,「日本人からです。紹介しましょう」と言う。まもなく,初老の日本人が姿を現した。

 その方は成形メーカーの技術顧問をしていた。工場での取材を終えると,私が宿泊していたクアラルンプールのホテルまで,その日本人技術者にクルマで送っていただけることになった。

 クアラルンプールの渋滞はひどい。クルマは止まったままピクリとも動かなくなった。日が暮れてきた。灼熱の太陽に照らされた大地からは余熱とともに香辛料のような独特のアジアの匂いが伝わってくる。子供たちが蝶のようにクルマの列の間を新聞やら水やらを売って走り回る。

華僑のアピール力に感心

 時間をもてあましてなんとなく身の上話を聞くことになった。元々は日本の成形メーカーで働いていたのだが,仕事量が激減したので数年後に控えた定年を前に早期退職し,知人の紹介を受けて観光気分でマレーシアに技術指導に来たのだという。ほんの数カ月のつもりだったのだが,約束の期間が過ぎてもマレーシア人の社長が「なんとかいて欲しい」と懇願する。

 観光ビザが切れるたびに帰ろうとするものの,引き止められズルズルと居続けた。季節の変わり目がほとんどないので,持病にいいという事情もあった。しかし,入出国を繰り返しているうちについに,マレーシア空港のイミグレーションの係官に目を付けられ,「ワーキングビザを取得しないなら次回からは入国させない」と警告される。その旨を社長に言うと,社長は焦ってワーキングビザ取得に奔走しているのだという。彼は苦笑しながら,そんなことを教えてくれた。

 彼はマレーシアで働いてみて,社長である華僑の自己アピール力に感心したという。顧客であるセットメーカーに対して,投資した装置,導入した技術の素晴らしさを説く。日系メーカーに対しては,ワーキングビザすら取っていない彼のような日本人の存在を前面に出し,日本標準で仕事ができることをアピールする。さらに,華僑のネットワークやら政府関係の人脈を通じて仕事をどんどん取ってくる。それに比べると,彼が日本で働いていた成形メーカーは,特定のセットメーカーに仕事を依存しすぎだったという。「営業努力が足りなかったのではないか」と,当時は気づかなかった古巣の一面を省みた。

 「マレーシアの方の技術面での実力はどうなんですか?」と聞くと,個人の潜在能力面では日本とほとんど変わらないという。ただ,少しでも給料がいい別の仕事があると,まったく別の職種であっても簡単に転職してしまう。成形メーカーの社長にしても,成形業にとどまる気持ちはなく,部品事業を最近始めたばかりか,製造業以外にも色気を出しているという。「職人的なものづくりはなかなか根付かないでしょうね。華僑が持っているビジネス感覚と日本の加工業の職人技が一緒にあればいいんですがね。なかなかうまくいかないもんです」といって,ため息をついた。

私的な飲み会からスタート

 帰国してしばらくして私は日経メカニカルの編集長になった。当時の広告担当者にぜひ来てほしい会合があると言われて付いていったのが,日経メカニカルに広告を出していただいた加工メーカーの社長たちの集まりだった。広告代理店であるアントラムの社長である工藤正克氏が主催していた。この工藤さんを囲む,いたって私的な飲み会が現在の「ものづくりパートナーフォーラム」(詳細はここに)の前身である。

 1回目の会合が開かれたのが1996年で,20人~30人くらいの加工メーカーの社長が集まった。中には,2代目の若い経営者も結構いた。彼らと話していると,マレーシアで会った日本人技術者の方が目指す姿があるような気がした。親父譲りの高い技術力に加えて,彼らは加工業をサービス業ととらえ,従来の口コミ中心の営業から,きちんとしたメッセージで彼らの持つ技術力をアピールしたいと熱っぽく語っていた。

 工藤氏と加工メーカーの社長たち,そして日経メカニカルのスタッフを加えての私的な会合を数年続けるうち,一歩進めて発注先の設計技術者も呼んで,話し合える場にしたらどうか,という機運が盛り上がった。日経メカニカルの読者500人近くにアンケートをとったところ,9割を超える設計者が「新しい試作・加工メーカーにコンタクトしたい」と答えたことも我々の気を強くした。

 こうして,1998年には「ワークショップアクセス」と銘打ち,現在の形に近い技術見本市が開催された。1回目は,30社の加工メーカーが成形サンプルなどを持ち寄り,170人の設計者が参加した。反響は思いのほか,大きかった。設計者の中には図面を持ち寄り,加工メーカーの担当者と熱心に商談する姿があちこちに見られた。あれから8年,規模は徐々に大きくなり,「日経ものづくり」の創刊と共に,名前も「ものづくりパートナーフォーラム」と変わったが,開催のコンセプトと情熱は変わっていない。7回目の昨年には79社の加工メーカーが参加し,830人の設計者が来場していただいた。

開発ストーリー誕生の場

 毎年,会場を眺めていると,それこそ「プロジェクトX」ばりの開発ストーリーがあちこちで展開されている。一例を紹介しよう。ある年のパートナーフォーラム会場で,ある軸受メーカーの設計者が,現在金属の軸受を「樹脂化できないだろうか?」とある成形メーカーに持ちかけた。その成形メーカーは自分だけでは解決できないと判断し,材料メーカーに話を持っていき,材料から工夫を加え,3社で共同開発を行い,2年後ついに実現する。2年後の会場で,今度は加工メーカーと材料メーカーがそろって出展し,「樹脂化に成功しました」と技術力をアピールする。

 そんなストーリーに接すると,私たちメディアも少しは日本のものづくり強化に役立っているのだろうか,と思ったりする。今年はどんなストーリーが生まれるだろうか。「ものづくりパートナーフォーラム2005」は11月10日,東京都立産業貿易センターで開催される。