「いやあ、それは素晴らしいことですね。私が一番悩んでいることの解決につながるかもしれませんよね。本当にそうなって欲しいなあ」

 ある大手製造業の技術系マネジャの述懐である。先日、このマネジャとあれこれ話していた時、ある話題に彼は激しく反応し、冒頭のように発言した。その話題とは「米国では小中高校生の時から『トレードオフ』の概念を教えようとしている」というものであった。彼とは2時間以上、様々なことを話し合ったのだが、彼はこの話題にもっとも興奮し、かつ喜んでいた。

 この方は入社以来20年以上、技術一筋でやってこられた方で、現在は技術者を部下に持つマネジャである。もともとの専門は機械だが現在はエレクトロニクス関連の要素技術開発を統括されている。こうしたキャリアを持つマネジャとじっくり話をするのは筆者にとって初めての経験であった。

 20年近く、情報技術(IT)産業を取材してきたので、いわゆるシステムズ・エンジニア(SE)の方には数え切れないほどお目にかかった。筆者はある理由により目下のところ禁酒中だが、以前はSEの方と朝方まで飲んであれこれ話し合ったものである。だからSEやSEマネジャがどんな話に反応するかは大体知っている。だがメカニックやエレクトロニクスの技術者となると正直よく分からない。トレードオフ教育の話が非常に受けたのはちょっと意外であった。

デザインとはトレードオフの決定


 さてトレードオフ教育とはこんな話である。

 米国にある国際技術教育協会という組織が『Standards for Technological Literacy』という文書を策定、出版し、同書に基づいて幼稚園から高校まで「技術リテラシー」教育を進めようと努力している。その対象は、幼稚園から第12学年(高校)までのすべての生徒であり、技術系に限った話ではない。

 技術リテラシーとはすべての米国民が身に付けるべき技術に関する基本的素養であり「技術とは何か」「科学との違い」「技術の中核概念」といった内容を含む。技術とは問題解決のために自然界を改変することで、その中核は「システムをデザイン(設計)すること」にある。デザインにあたって「トレードオフ」を考慮しなければらない。

 『Standards for Technological Literacy』でまとめ上げた技術リテラシーは日本でまったく教えていない内容ばかりである。理科系大学を卒業した技術者であっても「技術と科学の違い」「技術の本質はシステムのデザイン」「トレードオフ」を習っていない可能性がある。教育によってすべてが解決するわけでは勿論ないが、すべての国民が学校で「トレードオフ」という概念を一度習っておくことは有意義と思う。

顧客の前でトレードオフは禁句


 こんな話をしたところ、技術系マネジャは「私が毎日考えているのはトレードオフですし、お客様に絶対言えないのもトレードオフです」と語ってくれた。彼は、担当している製品の要素技術に関して、機能、性能、技術の先進性、安全性、製品の大きさ、コストなどを洗い出し、トレードオフの判断を常時下している。

イラスト◎仲森智博
 つまり設計者である彼の仕事はトレードオフの判断と言える。彼はこんなことも言っていた。「設計の仕事をしています、と言っても一体何をしているか、普通の方にはご理解いただけません」。トレードオフの判断という、重要かつ困難な仕事をしているわけだが、分かってもらうことは難しい。もし高校生になるまでに、デザインとかトレードオフという概念を誰もが必ず習うようになったらどうだろう。仕事の内容を今までよりも理解してもらえるかもしれない。

 技術系マネジャである彼は時々、営業担当者に連れられて顧客に会いに行く。事前に営業担当者から「トレードオフなんて言ってはダメですよ」と釘を刺される。顧客から「この製品の安全性はどうか」と聞かれたら「大丈夫です」と答える。嘘を言っているわけではないが「もっと金をかければさらに安全性を高められますがコストを勘案するとこの程度の安全性を保持できていれば十分でしょう」とは口が裂けても言えない。

 「我々は専門家であり、お客様は素人なわけですから、細かいことを議論するのは無理だし本来おかしい。ただトレードオフを理解した顧客と前向きなディスカッションができたら、さぞやいい仕事ができるだろう、と思いますね」。技術系マネジャはこう締めくくった。

「トレードオフ」は日本語に訳せない


 ところでトレードオフは日本語では何というのか。『Standards for Technological Literacy』の邦訳書の編訳者である桜井宏氏に聞いたところ、桜井氏は次のように答えてくれた。

 トレードオフとは、何かを採用する代わりに、何かを犠牲にすること。一例を挙げれば、フロンの禁止がある。フロンは非常に優れた性質を持っている反面、環境に悪影響を与える。世界の世論は「優れた性質」と「環境への悪影響」とのトレードオフを考えて、生産・使用の禁止を選択した。新しい技術を利用したり、技術を使って新製品を設計するときに、必ずトレードオフの考えがついてまわる。それほど重要な概念なのに、トレードオフに相当する適当な日本語がない。取捨選択とは違う。強いて言えば「異質の要素の利害得失を比較考量すること」となろうか。

 『Standards for Technological Literacy』の邦訳は出版されている。以前別なWebサイトで紹介したとき「発注できる程度の情報を提供せよ」と読者から叱られたので詳しく書いておく。邦訳の書名は「国際競争力を高めるアメリカの教育戦略」。副題は「技術教育からの改革」。出版社は教育開発研究所(113-0033 東京都文京区本郷2-15-13 電話03-3815-7041 FAX03-3816-2488)。著者は国際技術教育学会。編訳者は宮川秀俊/桜井宏/都築千絵。ISBNは4-87380-331-4 C3037、定価は3000円である。

●コラム名を「さよなら技術馬鹿」とした理由(トップ・ページへ)