司法ではなく報道に負けたのではないか。高輝度青色発光ダイオード(LED)の発明対価を巡る訴訟で、中村修二氏・米カリフォルニア大学サンタバーバラ校材料物性工学部教授が敗れた理由のことである。

 中村氏は発明対価訴訟の和解に応じたことについて「完敗」と表現し「日本の司法制度はおかしい」と言い残して日本を去った。しかし筆者は「中村氏は報道に負けた」と考えている。

 ここで報道とは、テレビ放送や新聞、雑誌などを指す。特にテレビや新聞などマスメディアが東京高等裁判所に与えた影響は大きかったと思う。ただし筆者はテレビを見ないので以下の記述でいう「報道」はもっぱら新聞を指す。ちなみに筆者は新聞社の子会社に勤務し、専門誌を作っているサラリーマン記者である。そういう立場の記者が報道の問題について考えて書くというのはややこしい構図になるが、本件は重大事なので書く。

当初の地裁判決への違和感

日経ビズテック No.005 p.130より 写真◎松岡祐紀

 1年前の2004年1月31日、前日の東京地裁判決を受け、中村氏の発明対価に関する記事が新聞に大きく出た。切り抜きが手元にあるので見出しをいくつか書き写してみよう。「発明対価200億円命令」「200億円支払い命令 発明対価は600億円」といった見出しが一面に踊った。同日の社会面にも大きく出ている。社会面の見出しは「夢の報酬『技術者に励み』」「2万円一転輝き200億円『サラリーマンだっていい研究すれば…』」などとなっている。

 筆者は当時、一連の新聞記事を読んで相当な違和感を持った。初めにお断りしておくが、筆者の主な取材対象は企業情報システムであって、エレクトロニクスは専門外である。門外漢が新聞記事を読んでどう思ったかを書く。

 職業病なのかもともとの性格が悪いのか、筆者は新聞記事を読んだときには必ず「この記事の論旨はおかしいのではないか」「別な角度から分析して書けるのではないか」と考えるようにしている。そして考えられる限りの極論を頭の中で作ってみる。これは記者としての訓練である。新聞と同じことを書いても商売にならないからだ。

 1年前に中村裁判の報道を読んだときはまず「600億円という金額には驚かないぞ」と自分に言い聞かせた。判決を評価するにせよ、批判するにせよ、金額の大きさは度外視して考えようとしたのである。正直に言えばあの金額には少しびっくりした。しかしすぐに「ビル・ゲイツ氏を見よ。兆の単位の資産を築いている。600億円なんて端金」と思い直した。

 金額を意識的に無視して新聞を読み直した結果、二つの点がおかしいと考えた。一つめは中村氏の貢献度が50%という点。「いくら何でも多すぎないか。発明を事業化するためには、多くの研究者や技術者、工場の担当者、そして営業担当者がかかわるはず」という理屈からだ。

 二つめは「この判決で、子どもたちがサイエンスに夢を持てるようになる」という中村氏の発言である。子どもが科学に興味を持つのは好奇心や探求心からであって、大金が将来もらえるからではなかろう、と思った。

技術者は中村氏を支持したが

 とはいえ筆者は青色LED訴訟については深く取材してきたわけではないから、二点の違和感をそのまま書かず「読者に教えを請う」といった意見募集の形に原稿を仕上げ、ビジネスイノベーターというサイトに発表(お読みいただくにはTech-On!とは別のご登録が必要です)した。このサイトは読者が意見を書き込めるようになっているが、記事公開直後に57人の方から意見をいただいた。

 57人のうち41人は判決に賛成あるいは中村氏を支持し、16人が「地裁判決には賛成できない」という意見であった。賛成派支持派の意見は熱いものが多く、筆者に対し「日経エレクトロニクスの高輝度青色LED開発記事を読んでからものを言え」といった主旨のことを書いてきた方もおられた。

 技術者の方々の感動と思いは実感できたが、筆者はまた別のことを考えた。技術者の方はお怒りにならずにお読みいただきたい。「技術者が中村氏を強く支持すればするほど、非技術者から反発をかい、後々揺り戻しが来るのではないか」ということである。

 ここで言っているのは中村氏の本当の功績がどうだったかとは別の話である。筆者を含め日本の多くの人たちが新聞(あるいはテレビ)「だけ」を見て「100年に一度の発明をしました」「対価が600億円と認められ、子ども達は夢を持てます」という中村氏の発言を初めて聞いたとき、どう思うだろう。中村氏と地裁判決を諸手を挙げて歓迎する人ばかりではなかったはずだ。

 先に57人の書き込みのうち16人が地裁判決に批判的であったと書いた。実際、技術者の中に批判的な人はいた。地裁判決が出た後、取材や原稿依頼などで技術者あるいは研究者の方に会い、雑談になったときには必ず中村裁判のことを聞いてみた。露骨に顔をしかめる人は結構いた。

 繰り返すが、これは情報格差ゆえの現象である。中村氏の動向を昔から知っている人と、地裁判決から知った人では、物事を考える前提が違っている。日本のあちこちで中村支持派と反対派が熱い議論をたたかわせたことだろう。筆者自身、中村氏と地裁判決に違和感を持つ人と、中村氏を支持する人のやり取りを耳にし、そのことをコラムに書いた(「『真実はこうなんだ!』、中村裁判を熱く語る人物」,同上)。

 ここからさらに曖昧な話になる。中村氏の主張は極端過ぎる。一人で全部はできないだろう。世話になった企業を訴えるというのはいかがなものか。600億円という金額はやはり非常識だ---。これらはすべて「気分」であり「感覚」であって論理ではない。しかしこの1月に出た和解勧告は、こうした世間の気分と感覚を忠実に反映したものになった。その気分と感覚の大本は報道、正確に言えば報道による情報格差だったのである。いや、気分が報道に反映したのかもしれない。

ラーメンを食べながら中村氏を追求

 今年の1月14日、帰国直前の中村氏に会う機会に恵まれた。筆者が携わっている日経ビズテックというメディアに原稿を書いてもらおうと頼みに行ったのである。最終的には日経ビズテックの最新号に4ページの「緊急寄稿 私は何に負けたのか」を掲載できた。今回の寄稿が完成するまでの楽屋裏をお見せしつつ,上記の問題とあわせて考えてみたい。(次ページに続く