「人が評価する限界」を感じるのは、採用だけではありません。権威ある国際会議や論文誌の採択では、「学識経験者」が論文の採否を決めます。ところが、分野の権威というのは過去、功績があったかもしれませんが、将来について見通す力があるとは必ずしも限りません。

 私も国際会議の論文採択委員を務めるようになり、審査の場で非常に画期的な技術が、「新しすぎて理解されない」理由で落とされるケースがあることに気付きました。そうした「跳び過ぎた技術を落とす」時の言い訳として、「実用的ではない」とか、「この技術は難し過ぎて学会の聴衆が理解できないのではないか」など。

 論文審査の場に居合わせると、真に画期的な技術よりも、既存の世界トップの技術に「多くの審査員が理解できるようなちょっとした工夫」を加えることで更に性能を向上させた、という方が採択されやすいことも多いと感じます。

 「人が人を評価することの問題」は大学にもあります。文部科学省が推進する教育改革では、大学入試にも面接を取り入れ「人物重視の入試」になるそうです。しかし、「さして社会経験が豊富とも思えない、むしろある専門分野に特化して研究をしてきた大学教員が短時間の面接で人物を見抜くことができるのだろうか?」と、大学教員の私でさえも疑問に感じます。

 結局のところ、就職活動に限らず、「人が人を評価する」選抜をくぐり抜けるには、運にも大きく左右されるのです。評価される側は評価する人を選べません。自分のありのままの姿を認めてもらえる場合は良いのですが、そうでない場合には、評価する人自体の考え方やレベルを考え、その人が望みそうな人物像を演じる方が有効なのでしょう。

 評価する人が理解できないものは、いかに優れていても、否定されてしまうからです。そういう器用さを持ち合わせた学生の方が、就職活動は有利になるのでしょう。器用さ、要領の良さでは入社後の仕事でも大切でしょうが、どちらかというと「尖ったタイプ」が採用では損をするように感じるのは、企業にとっても良いことなのか、と思います。仮にスティーブ・ジョブズが日本の大企業の面接を受けたとしても、「変な奴」と判断され受かるとは思えませんから。

 就職活動がうまくいかない学生はとてもつらいと思います。何が悪かったか、自分を振り返ることも必要でしょう。ただ、人が人を選ぶ面接ではペーパーテストに比べると客観的な評価が難しく、運にも大きく左右されます。ですから人格が否定されたように、過度に落ち込まないで下さい。

 また、うまく「企業が求める学生の姿」を演じて就職活動に成功した学生は、そのままの姿勢で入社後に安泰とは思わない方がよい。決して会社や上司の言うことを鵜呑みにせず、入社しても自分の道は自分で切り拓くことを忘れないで欲しい。そして、入社した企業で得られること、学べることがなくなったら、転進することに躊躇してはいけないと思います。