「杉田クリップの誕生」

 人間、長所は短所に通じ、短所は長所に通じる、といわれる。同一人物の評価でも、「あの人は機を見るに敏だ」といえば長所になるが、「あの人は状況に流される変節漢だ」といえば短所になる。長所は短所でもある。それは金属材料にも当てはまる。

 時計のメイン・スプリングの高度な要求を満たすために、時計会社のエルジン社が発見した新合金というところから「エルジロイ」と命名された金属は、世界中の時計メーカーが長い間夢見た弾性材料というだけあって、バネ特性がよく、耐蝕性、非磁性に優れ、疲労と温度に対する高抵抗の諸特性を兼ね備えている長所を持つ。しかし一方では、脳内の血管に挟み込むクリップのような小さく精密な製品をつくる原材料としては、きわめて加工がむずかしい「加工難材」という短所を持つ金属でもあった。

 エルジロイを脳動脈瘤クリップの材料として用いるためには、断面直径が1ミリ、1.2ミリ、1.6ミリといった線材に加工しなければならない。まずそのクリップ用線材への加工段階からして、エルジロイは難材であった。エルジロイの弾性材料としての特性は、冷間加工と熱処理によって引き出される。脳動脈瘤クリップのような特別な用途の場合には、熱処理の温度も冷間圧延率も変えねばならない。それらの微妙な調節が、線材からクリップへの加工段階に影響する。目には見えない微細な傷でもあれば、バネとなる2重巻き形状の加工段階でピーンと割れてしまう。まるい線を平らにするフライス加工では、それまでの表面の粗さが100分の1ミリだったのを1000分の1ミリ以下にきれいに仕上げる必要があった。井上や石川らは素材メーカーにさまざまな注文をつけ、最良の材質を得るべく力をつくした。

 最良の材質を得ても、1本の線材から杉田医師が要求するような性能を持つクリップをつくりだすには、さまざまな難関が待ち受けていた。エルジロイには過去の経験則が一切通じなかった。ミリ単位の直径のなかで、いかにバネ圧を強め、開き幅を最大にするのか。そのための最適な形状はどれか。つくっては壊し、壊してはつくり、加工作業の工程において試行錯誤に明け暮れる日々が続いた。

 医療機器づくりのむずかしさは、器具をつくる人間が自分でそれを使って出来具合を試すことができない点にある。まして脳動脈瘤クリップの場合には、使われる場所は人間の脳のなかである。開頭手術のときに挟み込まれたクリップは頭が閉じられたあとは脳内に残されるので、ひとたび使用されたあとは性能を点検し修正をほどこすわけにはいかない。

 挟み込む対象は人間の生きた血管である。生きた血管はなかに血液が流れているから拍動する。把持力が弱ければ、拍動によってずれが生じる。把持力が強過ぎれば、血管が挫滅するおそれがある。バネ圧の調整によって、把持力は大きく変化する。把持力を正確に把握するための測定器も自分たちで開発した。ちなみに、個々のクリップに把持力をラベル表示したのは、杉田クリップが初めてである。

 杉田クリップは従来のハイフェッツクリップやスコービルクリップなど欧米製のものとはまったく違った形状・性能を持つ。特長である2重巻きのバネ形状は、現場作業員のアイデアから生まれている。2重コイル構造を持つことで、安定したバネ圧を得ることができた。把持部には精妙な筋目を入れることによって、血管を挟みやすくした。形状や性能などはクリアしたが、最大の欠点は反転しやすいことであった。反転防止をいかにしたらよいか。解決策を求めて苦闘するなかでたどり着いたのが、あの小さなクリップにブリッジを取りつけるという方法である。そのためには1.0ミリの線材に0.4ミリの穴を開けなければならない。初めての試みであるだけに、苦労も大きかった。

 完成度を高めるうえで開発スタッフに強烈な刺激を与えたのは、実際の脳動脈瘤手術への立ち会いである。新潟県に立地するミズホ五泉(ごせん)工場の星輝雄ら開発現場の人間が名大病院に杉田を訪れると、「おう、よく来た。よく来た」といって、嬉しそうな笑顔で歓迎してくれた。だが、手術室での杉田は星たちと親密に接するときとはまったくの別人であった。

「アホゥ!」。怒声と激しい叱責が杉田の口から助手を務めるドクターに飛ぶ。ピリピリした雰囲気のなかでドクターやナースが杉田の手の動きに目をこらす。

ハイフェッツクリップの開発者ハイフェッツ博士夫妻と杉田教授(右)と小林茂昭・信州大学助教授(当時・左)