いつの間にか、Apple Watchを腕に着けていることを忘れてしまっていた。こう書くと、ふだん筆者がApple製品を多用していることを知る同僚は、褒め言葉だととらえるかもしれない。全くの誤解である。久しぶりに会った知人に指摘されるまで、そこにあるのが単なる腕時計でなく、ウエアラブル業界最強の切り札であることを本当に忘れていた。もっと言えば、折にふれて盤面に時刻が現れなくなることから、そもそも何もないのと同じ、「まさに究極のウエアラブル端末」と表現したいくらいだ。

 確かに動機は不純だった。締め切りの重圧に押しつぶされそうになると、なぜか物欲が頭をもたげる。そんな自分に、分解用の一台は、いち早く確保しろと言うのだから因果な商売である。予約ついでにもう1つ頼んだとしても何の問題があろうか。事前に公開されたレビュー記事には、生活が変わるとまで書いてある。自腹を切るのだから誰にも文句を言われる筋合いはない。そう、難癖をつけるに決まっている家内にもだ。

 始まりは素敵だった。はめ方にコツがいるベルトに苦労しつつ身に着けたそれにふと目をやると、黒い盤面にすうっと文字盤が浮かび上がった。これには驚いた。時計が自分を見つめているのかと思った。後から知れば何のことはない、時計をのぞきこむ際の腕の動きを感知して、スリープ状態から目覚めているのだった。そして、電池の減りを抑えるこの工夫は、時計としてどうかと言わざるを得ない状況を生む。たまに何度か腕を動かしてもなかなか画面が復帰しないばかりか、取材の途中で相手に気取られぬよう時計を盗み見る記者にとって、もぞもぞ手首を動かしたり、突然腕を上げたりするなど、まさに禁じ手なのである。

 実際、記者という職業には、とりわけ不向きな製品なのかもしれない。初めて腕時計にかかってきた電話に喜び勇んで出てはみたものの、相手に聞こえるか不安で思わず声を張り上げる上、スピーカーから流れる先方の声も周囲に丸聞こえだ。これでは秘密の会話など、しようにもできない。すぐさまスマホに切り替えたいが突然のことに慌てふためき、社内で醜態を晒したあげく、二度と時計では電話に出ないと心に誓う始末である。