前回は、アトムメディカルでいまなお語り継がれる「わが社の保育器がパトカーに先導される光景は全社員の誇りであった」という”伝説” について記した。

 今回初めて読まれる方のために要約してご紹介しておこう。

 伝説は、1976年日本で初めての五つ子が鹿児島市立病院で誕生したときの出来事に由来する。病院では保育器が足りず、医師の要望によりアトムメディカルの最新の保育器が埼玉県浦和の工場から出荷して羽田空港から緊急空輸された。そのとき保育器を積んだトラックをパトカーが先導するという前代未聞の光景が展開された。「国賓級の重要人物を空港まで無事にお送りするのが任務のパトカーが、保育器を先導するなんて……」と、警察の幹部がつぶやいたというエピソードが残されている。

 男児2人、女児3人の同時出産という山下家の五つ子の誕生は、国民的な関心を集めた。テレビは連日、保育器の中での五つ子の様子を詳細に報じ、新聞では日々の天気予報のように五つ子の体重変化が掲載された。

 五つ子が生まれる確率は、4000万回の出産に一例ほどといわれる。日本でも五つ子出産の記録はあるが、無事に出産し成長した例はなかった。五つ子無事誕生のニュースは、日本だけではなく外国のメディアでも写真入りで大きく報じられた。国内外の医療関係者が注目したのは、いずれも出生時の体重が普通児の半分以下という低出生体重児が、一度に5人も生まれ、そろってすくすくと育つことができるのか、という点にあった。

 もしも保育器の到着が遅れたために五つ子のからだに不具合が生じる事態となったら、非難の矛先は……と考えたら、パトカーによる保育器運搬の先導を要請された警察としても協力せざるをえなかったという事情がある。五つ子誕生は、保育器の大切さを国民の間に広め、保育器の普及につながる契機ともなる。保育器の中の五つ子たちは、「五つ子プロジェクト・チーム」の献身的な働きにより無事成長し、現在そろって30代半ばの年齢に達している。

  今回はアトムメディカルの3人の方に登場していただく。アトムメディカルを周産期医療機器のリーディングカンパニーへと導いた松原一雄社長、世界最高水準の製品をつくり出す技術開発センターに所属する若林啓介・技術部部長と小林心一・技術部課長。

日本の新生児死亡率の低下とアトム保育器の進化の過程
資料:アトムメディカル
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