先生、おなかに
何人入っているの

 ――「先生、赤ちゃんたちにいつ会えます。4年以上も待ってやっとできた子どもなので、早く会いたい」と、わたしにせがむ。

  五つ子であることを、紀子さんに告げるべきなのかどうか悩む。

  とりあえず、東京にいるご主人にだけ、このことを知らせておこう。

 きょうから五つ子くん担当の看護婦を三人とし、看護体制を強化する。

  第一のヤマは、きょうから48時間内。プロジェクト・チーム全員に臨戦体制をとらせる。

 わたしも当分、好きなゴルフができないだろう。

 とっても長い一日だった。水割りを三杯飲んで休む。

 就寝AM4・00――

 これは、外西寿彦(ほかにしひさひこ)医師の日記からの抜粋だ。日記の日付は、昭和51(1976)年1月31日。この日、外西医師が産婦人科部長を務める鹿児島市立病院において五つ子が誕生した。男児2人、女児3人、日本で初めての五つ子の無事出産であった。

  出産の4日前にも外西医師は母親の山下紀子さんから尋ねられている。

「おなかのほうぼうを、多数でドンドンけっとばすんです。先生、おなかに何人入っているの」

 外西医師は超音波断層撮影で五児を確認していたが、紀子さんには四児までしか告げていなかった。五児と知らせたときに紀子さんが大きなショックを受けるのではないかと心配したからだ。五つ子が生まれる確率は、4000万回の出産に一例ほどといわれる。日本でも五つ子出産の記録はあるが、無事に出産し成長した例はなかった。

 五つ子の無事誕生のニュースは、日本だけではなく外国のメディアでも写真入りで大きく報じられた。国内外の医療関係者が注目したのは、いずれも出生時の体重が普通児の半分以下という極小未熟児が、一度に5人も生まれ、そろってすくすくと育つことができるのか、という点であった。

  発表された五児の出生時の所見はつぎのとおりだ。

  第一子 ―男児。出生時体重1480グラム。仮死なく成熟徴候良好。酸素投与。

  第二子 ―女児。出生時体重1800グラム。成熟徴候良好。酸素投与。

  第三子 ―男児。出生時体重1130グラム。成熟徴候良好。酸素投与と10パーセント糖点滴。

  第四子 ―女児。出生時体重1300グラム。仮死なく成熟徴候良好。生後より半日間酸素投与。10パーセント糖点滴。

  第五子 ―女児。出生時体重990グラム。仮死なく成熟徴候良好。酸素投与。10パーセント糖点滴。

 五つ子が誕生した昭和51年は、田中角栄首相らが逮捕されるロッキード疑惑事件など暗いニュースが続いたときだ。そのなかにあって、五つ子たちが成長する様子は人々の気持ちを明るくさせた。

 そのかげには、外西医師ら「五つ子プロジェクト・チーム」の献身的な働きがある。チームは、外部からの応援を含めて医師10名、助産婦1名、看護婦4名、計15名で編成された。市立病院の三人の担当医は、長椅子に交代で仮眠をとりながら24時間五つ子から目を離さず治療にあたったが、早急に改善せねばならない問題に直面する。

 保育器である。鹿児島市立病院の保育器はほとんど使用状態であったため、五つ子は3台の保育器に同居させられていたのだ。