久保田さんは群馬大学工学部卒業後、昭和38年に日本光電に入社。欧州で考案された集中治療室用監視装置の改良を手がけ、無線方式で病室外でも監視できる仕組みを開発。一方、コントロン社は欧州で三つの指に数えられるが、日本では医師の実情を知らないことなどが販売の壁。これを克服するため、技術、医師の人脈に加え、海外短波放送キャッチの趣味でみがいた語学力と三拍子そろった久保田さんに白羽の矢が立った。

 コントロン社のアントニオ・レオーネ社長とは年前、機器の売り込みに出かけて顔見知りに。この時の商談は成立せず、「品物が売れず、私が売れる結果になってしまいました」。

 給料は「それなりに考慮してもらった」そうだが、「お金よりも、独創性に富む欧州の機器を日本人の技術力でより使いやすいものにしていきたかった」。

 新聞記事には記されていないが、久保田さんのスイスの医療機器メーカーへの転身には、米国のヘッドハンティング会社が仲介役を果たしている。ヘッドハンティング会社は、エグゼクティブ・サーチと呼ばれ、経営幹部や学術研究者、開発技術者などの優秀な人材を、国内外から獲得し斡旋(あっせん)するのを専業としている。

 後日、久保田さんはそこの担当者から「あなたが日本の医療機器メーカーからの人材引き抜き第1号です」と知らされる。

 久保田さんがヘッドハンティングの対象とされたのには、すでにこの当時、世界初の二つの製品を開発していたことが大きく関係している。

開発製品に見る生体情報モニタの進化の流れ。
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 まずは、生体情報計測装置の開発史においてフロンティア製品とされる「ベッドサイド・モニタMBM―40 」(1965年製品化)。つぎに、生体情報伝達の無線化を成し遂げ、今日のワイヤレス医療機器時代への道を開いた「ベッドサイド・モニタICU―6000」(1976年製品化)。

 そしてワイヤレス全盛時代の今日、若い技術者たちの最先端製品の創出に協力している。

 久保田さんが社長を務める(株)GM3が開発した「ワイヤレス生体センサRF―ECG」(2006年製品化)は、サイズ・重量・消費電力において世界で最小クラスだ。

 女性の手のひらに載るほどの小型軽量の送信機が内蔵されていて、従来の医療機器には用いられていなかった2・4ギガヘルツ帯の電波が発せられる。この電波帯は携帯電話やスマートフォンにも使われているもので、USBタイプの小型メモリーチップ程度の受信機で受信可能だ。これによって、電極パッドをつけて左胸部に張りつけるだけで、ジョギングしながらでも運動・姿勢・衝撃に関係なく、心電図・加速度・温度がUSB受信機を介して携帯電話やスマートフォン、パソコンやタブレットに「きれいな波形」で表示できる。

 米欧勢が圧倒的優位を占める医療機器市場において、生体モニタの分野は日本が独創性を発揮し善戦している数少ない領域である。

 久保田さんの世界初の開発の足跡を通して、「生命を観察し支援するための技術」の進化を見てみよう。

 なお「監視装置」という呼称は、人権擁護団体からの要望もあり「モニタ」または「モニター」と改称されている。Monitor の表記は本稿では「モニタ」とし、Sensor は「センサ」とする。