宇佐美 本当にドラマの世界と同じで、祖父と職人さんは食事をする場所も食べるものも違う。たぶん薄給だったと思いますが、「自分たちも頑張れば、いずれは祖父のような生活ができる」と考えて職人さんは働いていたのでしょう。だから、辞めていく人には退職金の代わりに飴を切るはさみを1丁渡す。そういう時代だったようです。

「ありがとう」と書かれた仕込飴。図柄は絵よりも文字の方が難しいと言われている。直径2cmほどの飴の中にありがとうの5文字を作るのは容易ではない。(写真:大丸本舗)

 父の代になると、甘いものを作れば売れる時代で、ものすごく儲かったらしい。11人の職人さんが働いていたそうです。職人さんはそれぞれ俺流のやり方があって、しょっちゅうぶつかる。あるとき、それぞれ独立したらどうかと提案した。ニッキ飴が得意な職人さんにはニッキ飴の工場を、「仕込飴」(一般的に言われる「金太郎飴」)が得意な職人さんには仕込飴の工場を、という具合です。今で言うところの「ファブレス化」を進めたわけです。

三反田 なるほど。宇佐美さんは、いつから会社の経営に?

宇佐美 私は東京の企画会社に勤めていました。それで26年前にサラリーマンを辞めて、27歳で3代目として戻り、36歳で社長に就任しました。大丸本舗のほかに、お客さんのOEM品として飴の商品を提案するロングランという企画会社を持っています。

 私自身は全くモノが作れないので、自分が子供のころから一緒に働いてきた職人さんや、その息子さんたちと一緒に取り組んでいます。例えば、仕込飴でゆるキャラ、企業ロゴなどのノベルティ、周年記念品、テーマパーク用の飴を作らせていただいています。

 名古屋という街は閉鎖的なところがあって、ほかの地域から見知らぬ人が問い合わせても、お菓子メーカーは直接取引を嫌がるんです。だから、東京にパイプを持つ弊社が間に入って、この企画はこちらの工場で、その企画はあちらの工場でと提案をしています。まさにお菓子のコーディネート役をさせていただいています。

 飴屋という看板を掲げつつ、実は企画品でビスケットを使ったり、キャラメル、あられなどを活用したりして商品化しています。最低ロットは弊社で買い取らせていただきます。そしてオリジナル包装材も用意します。ですから、工場サイドではロスがありません。中小企業が、それぞれ営業担当者を多く抱えて、クルマでぐるぐる回る時代ではないと思います。お互いの経営資源を活用すればいいと思うのです。弊社が飴以外の営業や企画を代行して、地域が活性化できたらいいなと考えています。

宇佐美 能基(うさみ・やすき)
1961年2月にお菓子メーカーの集積地である名古屋の西区で出生。大学卒業後、東京の企画会社にて5年半勤める。27歳の時に結婚を機に退職し大正13年創業の大丸本舗に入社。業務は倉庫での出荷業務、トラックに乗り集配作業より始め、職人さんへの発注、営業を経て36歳にて3代目社長に就任。販路は全国にあるが、東京を中心に販売先を広げ、現在は米国(特にハワイ)、中国、香港、台湾、シンガポール、ベトナムなどの海外にも輸出。また、企画を活かした販売を主に展開中。現在に至る。(写真:加藤 康)
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三反田 信頼関係の上に成り立っているということですね。お父さんの代に独立したメーカーと、宇佐美さんのところの関係も信頼だけですか。資本を入れているわけではなく。

宇佐美 そうですね。一部、機械を入れているケースはありますけれども。昨年は創業90周年の感謝の会として飴職人さんたち、外注加工先、社員、そしてその家族の内輪で式典をさせていただきました。また、毎年恒例行事で1年に1度、職人さんたちも一緒に慰安旅行に行きます。まあ、弊社の社員にとっては、もしかしたら慰安になっていない可能性はありますけれど(笑)。

リアル 先ほど、この部屋に入ってきたときの様子を見て、お二人は以前からお知り合いなのだと思いました。本当に初めてなんですか。