開発のドラマからみると、
科学論文のほうが虚構

 「基礎実験、動物実験、臨床実験の結果は、きれいに論文にまとめられ発表された。多数の人の連名である。ここに書き切れないサポーターも多数いる。一人の力ではない。集団の力である。

トレミキシン開発のプロジェクト・リーダーを務めた武山高之氏。

 論文は理解しやすいように、理路整然と書かれている。実験も仮説に従って、順調に進んだかのように見える。しかし、実際の実験過程は、もっと複雑で、〈行きつ戻りつ〉があった。開発のドラマからみると、科学論文のほうが虚構である。開発物語はいずれ別に書かれなければならない」

 これは、〔メモ(個人的随想)〕「長かった“トレミキシン”(敗血症治療カラム)開発」と題されたなかの一文である。随想の主は、武山高之(たけやまたかゆき)。

 トレミキシンの研究開発は1981年、滋賀県大津市にあった東レの繊維研究所が滋賀医科大学第一外科から抗生物質のポリミキシンの固定化の提案を受け、固定化繊維の開発のために共同で研究に取り組むことを決定したことに始まる。東レ社内では探索研究開始から2年目に開発プロジェクトが立ち上げられる。以来、10年以上にわたりプロジェクト・リーダーとして陣頭指揮をとってきたのが武山である。

 武山の名は、内橋克人の著作『匠(たくみ)の時代』のなかに登場している。同書は、技術立国日本を支えた先達たちの苦闘と知恵と勇気を記録した名著である。東レが中空糸膜の製造技術をベースに人工腎臓を開発する過程が第六巻『人工臓器開発』のなかで描かれているが、その名は「“狂気集団”に助っ人次々」という見出しの箇所に出ている。

――やや遅れて、製品の滅菌方法について論議が湧き上がった頃、「狂気集団」にはさらに有力なメンバーが飛び込んでくる。武山高之(現在、岡崎工場フィルトライザー室長)だ。

 彼は新しい「ガンマー線照射法」による殺菌について、一から研究を深めるうち、“ミイラ取りがミイラ”になってしまった男であった。一人また一人風変わりな執念の男たちが人工腎臓の周囲に群れ始め、チームワークをとりながら、アイガー北壁をのぼり始めたのだ。――

 東レが事業化に成功した製品には、人工腎臓のフィルトライザーやトレスルホンだけではなく、心臓の僧帽弁狭窄症(そうぼうべんきょうさく)の治療用に開発されたイノウエバルーンカテーテルなどがあるが、それらの開発に武山はかかわってきた。

 武山は随想のなかで、トレミキシン開発プロジェクト・リーダーの役割と宿命について、つぎのように述べている。

「学会では『臨床試験まだですか。いつまで動物実験ですか』と冷笑の声も聞かれた。社内では『いつまでやっているのか。まだ出来ないのか。もう金は出せないぞ』とかさむ研究費に苛立ちの声があがるのに、耐えるのもプロジェクト・リーダーの重要な仕事であった。しだいにサポーターも減り、孤独になる。これもプロジェクト・リーダーの宿命である」

 滋賀医科大学との共同研究の開始から、トレミキシンが市場に姿を現すまでには13年を要している。共同研究の開始から治験臨床開始まで8年、それから製造承認取得まで4年半、そこから10か月を経て販売にいたっている。

 それがどのような歳月であったのか。確かにそれは理路整然と書かれている科学論文からは読み取れない。しかし武山の個人的随想の記述からはその実相が浮かび上がってくる。

 「臨床実験にいたるまでに時間を費やしたのは、エンドトキシンの測定、試作品の品質安定性、動物実験の再現性に関する困難によるものであった。時間がかかると研究費がかさみ、全社会議ではプロジェクト・リーダーは被告席に立たされ、非難をあびる。

 測定データを考えては眺め、眺めてはまた考える日が続いた。In-vitro(注・試験管内)の吸着実験のバラツキは、吸着等温曲線の濃度依存性としてまとめることに気がつくまでに時間がかかった。

 コントロールが難しい動物実験では、動物個体差が避けられず、それに試作カラム(注・円筒状の容器)上へのポリミキシンB固定のコントロールが難航し、データのバラツキの合理的解釈にも時間がかかった。毎晩、データを持ち帰り、眺めては、翌朝に議論することが続いた。そこでは、リーダーも担当者も同じであった。ちょっとしたヒントから瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)の結果を導くこともしばしばあった。

 生体内でエンドトキシンを追う測定は難しい。学会でもいまだに十分に確立されていない。このようなときは『諦(あき)らめて他の開発方法をとろう』と提案するのも、リーダーの重要な役割であった。制御した条件で、ポリミキシンBを繊維へ固定することにも、手間取った。繊維・高分子技術を動員するため、プロジェクト・グループ外の部署に依頼するのも、リーダーの大切な仕事である」