前回に引き続き、BizMobileのCEO(最高経営責任者)を務める小畑至弘氏を紹介する。イー・アクセス(現・ワイ・モバイル)のCTO(最高技術責任者)として、ADSL事業で日本のインターネット普及に大きく貢献した華麗なる技術者だ。

小畑 至弘氏。BizMobile 代表取締役CEO
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 幼少時代をオーストラリアで過ごした小畑氏は京都大学工学部に入学し、技術者としての道を歩み始めた。前回紹介したように卒業後は大学院に進学。その受験勉強では、夏休みの1カ月半の間、一歩も家からでないという集中力でトップの成績で合格を果たした。

 だが、このトップ合格が意外な結果となって小畑青年に降り掛かるのである。

 小畑氏は大学4年生になるとき、厳しいと言われていた教授の研究室を選んだ。神戸工業(現・富士通)で真空管の研究を手掛けた経歴を持つ高木俊宣教授である。高木教授の下、小畑青年は光磁気記録関連に使われていた金属薄膜を形成する技術の研究に取り組んだ。

「何を思ったのか、ちょっと厳しいと言われていた先生の研究室を選んだ。金属薄膜を研究したんですが、もし実験がうまくいっていたらその後、通信分野をやることはなかったでしょうね」

 小畑氏は、こう振り返る。小畑青年は、鉄や銅の金属薄膜を蒸着技術で形成する研究を手掛けた。しかし、2カ月かかっても、3カ月かかっても、なかなかうまくいかない。鉄を蒸着するために高温にすると、装置がすぐに壊れてしまう。そのたびに、実験装置の内部をゴシゴシときれいに掃除する必要があった。

研究室の周囲に危険な雰囲気

 来る日も来る日も高温にする工夫と、掃除を繰り返す。それに加えて、研究室の周囲はなにやら危険な雰囲気が漂っていた。測定に使うX線、数千Vの高圧、吸ったら命が危ないというガス…。危なそうな印象の環境の中で、先の見えない実験を続けた。

 「これをやめて、通信分野の研究をしたい」。いつしか小畑青年はそう考えるようになる。そのチャンスが大学院受験だったのである。大学院進学を機会に研究室を変わることができるはずだった。

 しかし、合格後に学校に行ってみると、話が違っていた。そのときに、トップ合格だと初めて聞いた。成績順に研究室を選べるかと思ったら、「過去に成績が1番の人間は違う研究室に移った例がない」という。見えない“圧力”で、「危険な暗黒時代」の継続を余儀なくされたのである。結果として2年間の修士過程を終えるやいなや、小畑青年は博士課程に進むことなく、迷わず就職の道を選んだ。

 1986年に小畑氏は国際電信電話(KDD、現・KDDI)に入社した。「電話ではなく、コンピューター通信に行きたい」という希望がかなって、データ通信部門に配属される。その後の4年間で、新入社員が最初に経験する検査部門から始まり、運用部門、開発部門とひと通りの技術部門を経験した。

 その後、5年目に米国の南カリフォルニア大学(USC)に留学する。USCは、1980年代にインターネットのドメイン名のシステムを開発し、インターネット隆盛の基礎を作ったジョン・ポステル(John Postel)氏が研究していた大学だ。当時、小畑氏はポステル氏に会っていないが、インターネットの礎を築いた場所の一つであるUSCに留学したのは、何かの縁であろう。