序文 水野博之さん追悼

 少し気になってはいました。

 拙著『電子立国は、なぜ凋落したか』(日経BP社)を、私は水野さんに2014年7月初めにお贈りしました。どんな読後感を寄せてくださるか、いつものように私は楽しみにしていました。ところが返信が、なかなか来ないのです。

 3月に『電子情報通信と産業』(コロナ社)をお贈りした際には、すぐ達筆の葉書が来ました。「大変な労作であるとともに西村さんの想いがひたひたと迫ってくることに感心しました」。このような水野さんのひと言には、いつも励まされます。そして続けて、「当方相変わらず頼まれるままに走りまわっています」とありました。

 ところが7月の贈呈には、8月になっても9月になっても音沙汰がありません。なんだかいつもと違うのです。そして10月に訃報を聞くことになります。

 最初にお会いしたのは松下電子工業におられたころですから、ご厚誼は40年に及びます。松下電器産業時代の水野さんにも本当にお世話になりました。けれども私にとっては、松下電器を去られてから後の交流が、強い印象として残っています。

 実は私は、妻の病気がきっかけで1995年に日経BP社を非常勤にしてもらい、フリーに近い形で活動するようになります。ほぼ同じころ、高知工科大学大学院に起業家コースを立ち上げることになった水野さんは、同大学院で集中講義をするよう、私を誘ってくださいました。以来、私は年に1~2度、高知に出かけることになります。それはまた、「水野節」をたっぷりうかがう機会でもありました。

 話題のなかには、こんなものもありました。

 日本を代表する大企業の副社長から、地方の小さな大学の教授に転身すると何が起こるか。大勢の役員秘書チームに支えられていた日常から、数人の新人教員にたった1人の秘書というチーム構成で新しい専攻を立ち上げる暮らしへ。初期にはかなりの混乱があったようです。

「大企業の役員なんて、1人では何もできない存在なんだということを思い知らされましたわ」

 新しい経験を、そんなふうに表現されていました。

 けれども事態の本質に気づいた後の水野さんの行動は、迅速・的確でした。それを、あの、ひょうひょうとした雰囲気で、こなしてしまいます。やがて請われ、同大学の副学長に就かれました。

 話題はしだいに「失われた10年」に収れんします。「どうしてこんなことになってしまったのだろう」。水野さんと私は、毎年この疑問について話し合うようになります。イノベーション、松下幸之助、そしてシュムペーターが、繰り返し登場しました。

 水野さんはシュムペーターを早くから詳しく調べておられたようです。『今こそ松下幸之助に学ぶ』(日刊工業新聞社、2002年)のなかの第四章は「シュムペーター考」と題されています。松下幸之助とシュムペーターをつなげて論じる、水野さんの面目躍如です。

 この時期に前後して、水野さんと私は共に、日経BP技術賞の審査委員に加わりました。賞の審査には、審査委員の考え方や価値観が如実に表れます。それは恐ろしいほどです。「あ、そういうふうにみるのか」。審査の場における水野さんの発言に、私はたびたび触発され、感銘を受けました。

 最近知ったことなのですが、水野さんは小説の書き手でもありました。須田刀太郎の筆名で、かつてはよく書いておられたのだそうです。「学費の足しにしていたんだ」とおっしゃっておられました。

 「勧められるままに最近また、こんなものを書いてみました」との添え書きと共に、『雁行夫婦剣──豪八・お京事件控』『室戸探偵事務所──ものぐさ瑛介のミステリアス事件簿』の2冊の須田刀太郎作品が、2012年に贈られてきました。

 素人の手慰みのレベルではありません。特に前者を、私は夢中になって読み進めました。

 やわらかな関西弁にのせた、実は極めて辛辣な憎まれ口、あれを聞くことはもうできないのだ。そう思うと寂しさが迫ってきます。合掌。

序文:西村 吉雄=技術ジャーナリスト・元日経エレクトロニクス編集長

追悼の意を込めて、かつて水野氏に寄稿していただいた原稿をここに再掲する。『日経ビズテック』2005年12月26日号の特集「後手必勝の法則」に合わせて掲載したものである。

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