承前

 マツダは1990年代に入って、1980年代末のバブル経済時代に打ち出した「5チャネル販売政策」が原因で瀕死の状態に陥った。販売チャネルをトヨタ自動車や日産自動車並みに増やすとして、従来の3チャネルから5チャネルへと拡大したのだ*1

*1 従来の販売チャネルは、商・乗用車系の「マツダ」、乗用車系の「マツダオート」、米Ford Motor社(フォード)バッジの「オートラマ」の3つである。5チャネル販売政策によって、商・乗用車系の「マツダ」、乗用車系の「アンフィニ」、プレミアム系の「ユーノス」、大衆車・軽自動車系の「オートザム」、そしてフォードバッジの「オートラマ」の5つとなった。

 しかし、社内の開発・生産体制がとても追い付かないので、共通プラットフォームで外観デザインだけを変えたクルマを各チャネルに供給するようになった。プラットフォームを共通化したらクルマとしての運動能力はほぼ変わらなくなり、外観プロポーションも似てしまうので、販売チャネルの性格に合わせたディスティングイッシュな(明確に識別可能な)クルマ造りが難しくなった。先日亡くなられた、『間違いだらけのクルマ選び』で知られる自動車評論家の徳大寺有恒氏からは「マツダのお手軽クルマ」と酷評された。

 結局、5チャネル販売政策のチャネル数に見合った販売台数を確保できなかった。そして1990年にバブル経済が崩壊すると、増やしたチャネル数の固定費負担だけが残り、マツダは窮地に陥ったのである。

 1970年代に第1次石油ショックやロータリーエンジンへの過剰な投資によって経営危機に陥ったときは、当時の住友銀行から役員を迎え入れて何とか乗り切ったが、それもつかの間、再び住友銀行から役員を派遣してもらい、支援を仰がざるを得なくなった。

 1980年代から経営管理を勉強し、トヨタ自動車を研究してきた私には、マツダの経営が浮沈を繰り返す根本的な問題が分かっていた。マツダには、「技術はあっても経営がなかった」のである。1980年代初頭に、私は自身の失敗によって発生した巨額のリコール費用を「倍返し」することを誓っていたので(第3回参照)、浮沈を繰り返すマツダを立て直すことが私にとってマツダにおけるビジネス人生の目標だった。

 そのチャンスは、突然訪れた。1993年に設計技術推進部の「共通化グループ」から組織ごと開発業務部の「共通化・品質推進グループ」に移った時に、新たなプロジェクトが立ち上がったのだ。それは、当時の一大潮流になり始めていた「ISO 9001認証取得」である。