理研や早稲田大学に関しては既に多くの方が記事を書かれているので、ここでは重ねて述べません。一方、STAP細胞にまつわる一連の騒動で感じるのは、科学者・研究者のコミュニティと、政治家や社会の一般の方々の認識のギャップです。政治家は社会(有権者)を写す鏡でもありますから、小保方さんを擁護する政治家がいるというのは、一般の方々にもそういう方が相当数いるということでしょう。

 ひょっとしたら、大概の人の反応は、「別に学位を与えて人が死ぬわけでもないし、お金が損するわけでもない。別にいいじゃないか」という感じかもしれません。博士と学士を同列で比べるのはおかしいかもしれませんが、学位の基準になると、誰しも自分のことを思い出してしまうのかもしれませんね。自分の学生の頃を思い出すと、「そういえば自分は大学ではほとんど勉強しなかったし、いい加減な卒論でも卒業できたよな」と。

 経営者や政治家が功成り名を遂げた後に、自伝やインタビューで「自分はいかに大学で遊んで勉強しなかったか」を自慢することも多いです。また、「たとえ学業ができなくても、勉強しなくても(特に就職が決まった)学生は卒業させろ」というプレッシャーを感じる大学の教員も多いのではないでしょうか。今回の博士の学位に対しても、厳格な基準を適用しなくて良い、という社会の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。

 さて、こうした出口(卒業)でのクオリティコントロールが甘くなりかねない日本の大学は、以前の日本社会ではそれでも良かったのかもしれません。以前は(企業によっては今でも)、大学は入試で学生を選別し、いわば、高校卒業の時点での学生の学力を測る認定機関のようなもの。たとえ学生が大学で勉強しなくとも、大学に入れたわけですから、潜在能力は証明されている。企業の中で鍛え直せば使い物になる、ということです。個人の側からすると、大学で勉強しなくとも、仕事に必要なスキルの教育など、企業が個人の面倒をみてくれるというモデルです。

 ただし、こういう考え方は、企業の中で長期の雇用が保証され、企業がじっくり人を育てる余裕があり、従業員は企業に長期間の忠誠を誓う、という年功序列、終身雇用のモデルでないと成り立ちにくいのではないでしょうか。今やグローバルでの競争は厳しく、技術や事業の移り変わりも激しい時代です。世界市場で日本の携帯電話メーカーを退場させたノキアでさえも、スマートフォンへの転換に出遅れたことが致命傷になり、マイクロソフトに買収され、とうとう大規模な人員のリストラが行われました。

 競争環境や事業が激しく変化し、10年、20年後のことは誰にもわからない時代ですから、企業も社員の長期の雇用を保証することは難しくなっています。個人としても入社した部署で学んだスキルだけでなく、就職してから後も、新しいスキルを自ら学んでいく必要があるのです。

 企業としても時代の変化とともに事業の内容を変える必要があるのですから、会社に盲目的に頼りっきりの人よりも、社会に出てからも自ら率先して学び、自ら新しい分野に挑戦する人材が必要になっています。事実、終身雇用の制度を維持している企業でも、新規事業を立ち上げる際には、新しいスキルを持つ人材を外部から積極的に採用するようになってきました。社内の人材を再教育するのでは、外部環境の変化のスピードに追随できなくなっているのです。

 このように移り変わりの激しい時代には、大学のような教育機関の役割は重要です。一度社会に出た人でも、事業の変化についていくためには、自ら新しい分野を学ぶことが必要になる。社会に出てからも、常に学び続ける必要があるのですから、大学に居る間に、自ら学ぶ習慣を身に付けること、つまり「学ぶ方法を身に付ける」ことが大切になります。それが現在の日本の大学で十分にできているかというと、まだまだ不十分なのかもしれません。