2006年初頭から動き出した小惑星探査機「はやぶさ2」構想。しかし、周囲からの理解は得られず、予算もつかず、で長い間不遇の期間を耐え忍ばねばならなかった。その時期、計画のリーダーとして、ひたすら耐え忍び、辛苦を重ねつつ匍匐(ほふく)前進を続けたのが、吉川真准教授だ(図1)。2012年9月に、國中均教授とプロジェクト・マネージャーを交代するまで、川口淳一郎教授と共に、時につぶれそうになる計画を支えて来た。しかし、工学系の川口、國中両教授と違い、吉川准教授は、理学系だった。より正確には、理学の研究の側から、工学へと関わっていった経歴の持ち主だったのである。

図1●吉川真・JAXA宇宙科学研究所准教授
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小惑星の軌道を調べていたはずが

――吉川先生は、もともと小惑星の軌道の研究者ですよね。

吉川 そうです。宇宙研に来る前は通総研(郵政省・通信総合研究所、現独立行政法人・情報通信研究機構)に在籍していました。小惑星の軌道が何十万年、何百万年もの間にどのように変化していくかを研究していたんです。これを軌道進化といいます。
 小惑星の軌道は、数十万年のタイムスケールでみると変化していまして、特に、大きな惑星に対して太陽の回りを巡る周期が1対2とか、2対3といった整数比になると、惑星の重力に影響されて大きく変化します。木星が太陽を1周する間に、小惑星は2周するというような状態です。このような簡単な整数比になることを共鳴状態といいます。木星と共鳴状態に入り、軌道が変化しすると、太陽系の内側に落ち込んで地球に近づくものが出てきます。これが地球接近小惑星です。

――地球接近小惑星の一つが、小惑星探査機「はやぶさ」の赴いた小惑星「イトカワ」ですね。吉川先生は1998年に通総研から宇宙研に移っていますが、地球接近小惑星の研究ということで宇宙研にいらしたのでしょうか。

吉川 いや、それもありましたが、より大きな理由は探査機の軌道決定でした。

――理学ではなく工学だったんですか?

吉川 そうですね。目的の小惑星に探査機を導くには、探査機がどこにいてどちらに向かっているかを正確に知る必要があります。これが軌道決定です。使えるのは探査機との間の往復の電波だけですから、そこから探査機の位置と速度の情報を引き出すわけです。
 宇宙研では、1985年の「さきがけ」「すいせい」によるハレー彗星探査の時に、アメリカのジェット推進研究所(JPL)で軌道決定を研究してきた西村敏充先生(現宇宙研名誉教授)が、日本で初めての惑星間空間を飛ぶ探査機の軌道決定を実施しました。その研究と実践を富士通から来た加藤隆二先生が引き継ぎました。加藤先生の後を、現在も活躍しておられる市川勉さんが継いだのですが、本格的に惑星探査機を運用していくのにあまりに人数が足りないというので、小惑星の軌道を研究してきた私にお声がかかったのです。ですから私は4人目ということになります。

――歴代4人目! 軌道決定といえば太陽系空間に探査機を飛ばすために必須の技術ですが、それが1980年代から歴代数えても4人……。日本の太陽系探査の層の薄さを端的に象徴する事実に思えます。

吉川 私が入所した1998年に、火星探査機「のぞみ」が打ち上げられています。もう、はやぶさの開発も始まっていましたし、太陽系に探査機を打ち上げるには軌道決定チームを増員する必要があったんです。

モノローグ
 宇宙研は、全体で300人の小さな“所帯”だ。このような極端な層の薄さは、宇宙研にとって当たり前の状態だった。
 それどころかこの人数でロケットや人工衛星の開発から運用までを実施するため、宇宙研では、一人三役とか四役が普通だった。例えば、初代はやぶさのプロジェクト・マネージャーを務めた川口淳一郎教授は、はやぶさのプロマネと並行して、固体燃料ロケット「M-V」の開発と改良に参加し、火星探査機のぞみのための軌道を設計し、次世代の電力ソーラーセイル試験機の構想を立ち上げ――と、いくつもの仕事を同時並行で進めていた。
 吉川准教授も、やがてそんな“宇宙研の流儀”に巻き込まれていった。