初めまして、東京メイカーの毛利宣裕(モウリ ヨシヒロ)と申します。この度、日経テクノロジーオンラインで3Dプリンターに関するコラムを連載することになりました。コラムのタイトル「あッ 3Dプリンター屋だッ!!」は、私たちが東京都中野区の「中野ブロードウェイ」で営業している3Dモデリング&3Dプリンティング・サービスのお店(アンテナショップ)の名称です*1。このお店を営業していく中で出会ったさまざまな人々との交流を通じて私が感じた、3Dプリンターへのニーズや使いこなしのポイントなどを本コラムでは書いていきたいと思います。

*1 正式には、“「あッ! 3Dプリンター屋だッ!!」東京メイカー×(株)ストーンスープ”という長い名前です。

図1 「中野ブロードウェイ」で営業しているアンテナショップ。
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光造形で好きなプラモデルを作りたい!!

 初回となる今回は簡単な自己紹介を兼ねて、私が所属する「東京メイカー」が設立されるに至った経緯を紹介したいと思います。

 3Dプリンターの元祖である光造形システムが、米国デトロイトで開催された展示会「Autofact」で発表されたのは1989年のことです。当時、自動車部品の設計に従事していた山田眞次郎氏〔現ブレインバス(本社東京)代表取締役〕は現地で光造形システムを実際に見て、「これは産業を変える凄い装置だ。日本にも早く広めないと!」との思い、1990年に日本初の光造形による試作サービスビューローとしてインクス(現ソライズ)を設立したそうです。

 このとき、私は高校1年生でした。自動車や戦艦などの写真やイラストから図面を引いて、キット化されていないフルスクラッチのプラモデルを毎日にように作っていました。そんなある日、NHK特集だったと記憶していますが、デトロイトのショーで光造形システムが発売されたという番組を見ました。

 当時の私には、とても衝撃的でした。「パソコン(CAD)ができれば、好きなプラモデルを作ることができる!光造形システムの価格は今は1億円だけど、10年も経てば自動車を買うくらいの値段になり、自分で買えるかもしれない!」と単純に思っていました。しかし、周囲の大人に光造形について聞いても全く知りませんでした。

 その後、私は設計者になりたくて、北海道工業大学機械工学部に進学しました。大学3年生になったとき、デトロイトのショーに出展した光造形システムのメーカーである米3D Systemsの日本支社が解散し、この会社の営業部長だった竹内茂氏が大学の設計ゼミの教授として赴任してきました*2

*2 現在の米3D Systems社の日本法人であるスリーディー・システムズ・ジャパン(本社東京)は2002年1月に設立された。

 光造形との再会です。「これはチャンス」と竹内教授の部屋に日参し、頼み込んでゼミ生になることができました。1997年の大学卒業時には、竹内教授に紹介してもらい、3D Systems日本支社の業務を引き継いでいたインクス(当時)に入社することになりました。

 会社では、ボタンを押すだけの単なるオペレーターではなく、米国で手作りしていたために個体差が大きかった3D Systems社製の光造形システムで、1台1台の最適な条件を引き出せるエンジニアとして育ててもらいました。その後、2001年にはインクスから現在の勤め先である試作会社に転職したのですが、昼間の業務では工業用3Dプリンターを今でも使い続けています。