スープが冷めない距離が大切

 第3の阻害要因への解決策は、チームが働く場所である。前回も紹介したように、イノベーション推進チームのオフィスは、本社ビルから歩いて数分の古びたビルにある。東氏に「なぜ、本社ビルにしなかったのか」と尋ねると、「スープが冷めない距離が丁度いいんですよ」と微笑んだ。「同じビルにいると、隣の部署の同僚が忙しくしていたら、つい手伝ってしまうでしょう。だから物理的に見えないようにして、自分たちのリズムでコンセプトづくりに集中できる環境にしています」。東氏の気遣いにあふれた性格がよく表れている。

 一方で、チームの存在を忘れられてしまわないために、電車には乗らない距離を意識したそうだ。そして、伝統的な巨大企業のオフィスとは違い、カラフルで自由な印象のオフィスにしている。シリコンバレーのベンチャー企業のイメージに近いと言えばいいだろうか。コンセプトづくりのための簡単な工作ができるようなスペースもある。別の部署の社員がふらっと気軽にやってきて、四方山話をしたり、何かを相談したりしやすい雰囲気づくりを意識しているという。実際、社員や幹部、役員が陣中見舞いと称して顔を出すことも多いそうである。

iCOVOでは、コンセプトづくりのための簡単な工作ができるスペースを設けている
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 東氏とのインタビューでは、「私は単純な暗記がすごく苦手なんです」という言葉が繰り返し出てきた。中学・高校では日本史や世界史のような暗記科目は得意ではなかったらしい。前回も紹介したように哲学が好きだった。その理由は、「なぜ」を突き詰めるからである。学生時代の塾講師のアルバイトでは、生徒に人気があったようだ。それは教え子に「こう覚えなさい」ではなく、「なぜ」を考えさせることに徹したからだと東氏は話す。

 東氏のイノベーション論は、こうした「なぜ」を突き詰める思考の分析に基づいていうように思う。会社の経営者と開発者がいかにコミュニケーションを取り、正しくタイムリーな意思決定を行うかに注目している。そして、その「なぜ」をロジックに基づいて体系化し、実際の組織の中で体現する実行力もある。

 もちろん、東氏のチームは、まだスタートしたばかりであり、壮大な実験の成否が分かるのはこれからである。しかし、既に同氏のチームから生まれた新しいコンセプトが、実際の開発プロジェクトとして動き出しているという。近い将来、とがったコンセプトによる画期的な商品が登場することを期待したい。

 東氏の試みを振り返ってみると、リスクを取って新しいコンセプトを採用してみようというJTの経営トップの意気込みが感じられる。カリスマ的なリーダーが存在する一部のオーナー経営企業を除いて、日本の大企業では思い切った新規プロジェクトを経営者が先頭に立って意思決定するケースは少なく、それ故に決断が遅れるという状況が、現実にはまだまだ多いのではないだろうか。

 新規プロジェクトが必ず成功する保証はない。とがったコンセプトであれば、なおさらである。むしろ失敗の方が多いと考えた方がいい。どのようにして少しでも早くイノベーティブなプロジェクトを創出するか。ダメと思ったらすぐやめる判断を下せるか。そしてどのようにしたら成功率を高められるか。これは、これまで以上にイノベーションが求められるようになった時代の競争原理である。

 東氏は、「結局、何もしなければ、0勝0敗0分けなんです」と話す。イチロー選手のように最高打率を狙うのでもいい。ホームランバッターでもいい。世界的バッターになってもらいたい。