冷戦の脅威が薄らぐなか、米国の対日政策が変化

 上記の日本半導体産業の品質管理の成功は、さかのぼれば米国が日本を「アジアの工場」として利用しようとしたことがきっかけである。その米国政策に応じて、日本の産業界はDeming氏の教えを学んだ。1950年から始まったその米国政策は、1985年に終わる。米国の長期・短期の対日政策が1985年に同時に変化したことを、この連載の第2回で指摘した。加えてDRAM市場も1985年に変化した(後述)。そのとき日本のDRAM産業は絶頂に達し、以後は急速にシェアを落としていく(図1)。

 米国の対日政策変化を要約しておこう。冷戦を前提とする日本の工業力強化(「アジアの工場」として日本を利用するため)という長期政策と、レーガノミックスによる円安(強いアメリカの演出)という短期政策、長短二つのこの米国政策が、1985年に二つとも転機を迎える。東西冷戦の脅威が薄らいだからである。日本の工業力を強化から抑制へ、そして円安から円高へ、1985年を境に米国政策は、こう変わった。

米国政策変化の影響はテレビやVTRと違う

 連載第2回で見たように、テレビやVTRなどの民生用電子機器の輸出は、1985年までは急増し、以後は急減している(図2)。半導体(集積回路)の輸出も1985年には急減した。しかし集積回路の輸出は3年後には増加に転じる。テレビやVTRの輸出は1985年以後、回復することはなかった。この点、集積回路は違う。

図2 カラーテレビ,VTR,集積回路の輸出と為替レート
資料:経済産業省機械統計、財務省通関統計など
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 その後、乱高下を繰り返しながらも、集積回路の生産や輸出は伸び続ける(図3)。21世紀に入ってからも輸出は伸びた。輸出の減少傾向が顕著になるのは2007年を過ぎてからである。それでも2012年時点でさえ、集積回路の輸出は2兆円を超えている。全盛期1985年前後のVTRの輸出は1兆6000億円ほどだ。VTRはかつて、民生用電子機器輸出の王者だった。その王者VTRの全盛期の輸出より、2012年の集積回路の輸出は大きいのだ。

図3 日本の集積回路の生産・輸出・輸入・貿易収支
資料:経済産業省機械統計、財務省貿易統計
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 集積回路の生産と輸出が急増し、半導体貿易摩擦を引き起こすきっかけとなったのは1984年である。そのときの集積回路輸出金額は約7800億円、貿易黒字は約5500億円に過ぎない。どちらについても2012年の値の方がはるかに大きい。

 2012年に集積回路産業は1兆円近い貿易黒字を確保した。これに対してコンピュータ関連製品は約1兆4600億円の赤字、通信機器も約1兆5400億円の赤字である。半導体は貿易では健闘していると言うべきだろう。

 その2012年、日本の半導体産業は瀕死状態とみなされている。貿易動向だけで議論できるわけではないが、日本の半導体産業は不当におとしめられている、そう言えなくもない。ただしそれぞれの企業にとって、半導体事業が利益をあげているかどうか、これは別の問題である。これこそが最大の問題かもしれない。