1980年代にはDRAMシェアで日本がトップに

 1970年代の後半からDRAM市場で日本メーカーの急成長が始まる。1980年代初頭には米国を抜き、日本のシェアが首位になる。64Kビット時代には日立製作所、256Kビットでは日本電気(NEC)、1Mビットでは東芝と、次々に交代しながらも日本メーカーがトップ・サプライヤーの地位を占めた。世界のDRAM市場における日本企業のシェアは、1986年には80%に達する。しかしそこが頂点で、以後、急速にシェアを落としていく(図1)。ここでも変化は1980年代半ばだ。1990年代の後半に韓国が日本を抜き、韓国のシェアは、いまや60%を超える。

 1985年にはIntel社がDRAMから撤退、マイクロプロセサに事業を集中する。「本当は撤退したくなかった。なにしろメモリーを作りたくてIntelを創業したのだから」。同社創業者の一人、故Robert Noyce氏は私に、悔しそうにそう語ったことがある。

日本製DRAMの信頼性が高いことを米国ユーザーが実証

 1980年代の前半に、日本のDRAMは信頼性が高いという評価を得た。日本製DRAM躍進の最大の理由は、この高信頼性の実現である。

 半導体メモリの当時の最大市場は、既に触れたように汎用コンピュータだった。汎用コンピュータは数億円もする。短期間に買い換える製品ではない。部品には高い信頼性を要求した。そのうえメイン・メモリの容量が大きい。当然、大量のDRAMチップを実装する。わずかでもチップが故障すると、故障チップを見つけるだけでもやっかいだ。

 また当時のメモリ市場に、電子交換機があった。1970~1980年代には、交換機の電子化が進む。電子交換機の内実はプログラム内蔵方式のコンピュータである。通信分野は、汎用コンピュータに劣らず、高い信頼性をDRAMチップに求めた。

 日本の半導体業界は「信頼性をつくり込む」という手法で対応する。検査段階で不良品を排除するのではなく、そもそも不良品を出さないよう、製造工程を工夫する。信頼性が上がるだけでなく、歩留まりも上がって生産性が向上する。だから結果的に、チップを安く供給できる。数年後にダンピングとして非難されるほど、日本製DRAMは品質の割に安かった。

 この手法をNECの技術者が、1980年3月、米国の技術雑誌に発表した[Goto,et al,“How Japanese Manufacturers Achieve High IC Reliability,” Electronics,Mar. 13,1980,pp.140-147]。時を合わせるかのように、日本電子機械工業会(英文略称はEIAJ、 日本電子情報技術産業協会JEITAの前身)が、1980年3月25日に米国ワシントンでセミナーを開く。

 「受け入れ検査において日本製DRAMのほうが米国製より良品率が高い」。米Hewlett-Packard社の担当者がセミナーの席で、こう発表した [Anderson、「日本における成功の方式──品質とは即ち競争である」、『品質管理:日本の高生産性の鍵』(ワシントン・セミナー報告書)、日本電子機械工業会、1980年3月25日、pp.32-41]。日本製半導体メモリの信頼性が高いことを、米国ユーザーが実証してくれたのである。