生徒が先生を超える

 反響は大きかった。前記技術雑誌『Electronics』の編集部は、次のようなコメントを載せた。「奇妙なことが起こった。日本の半導体メーカーがアメリカ人に品質管理について教えに来た。そしてその教えが正しいことを、アメリカ人が証明する。もともと日本は、品質管理を米国から学んだはずだ。生徒が先生を超えた」 [Editorial, "Outshining the Teacher ?," Electronics, Apr. 10, 1980,p.24]。

 上記の品質管理を日本に教えたのはWilliam Edwards Deming氏とされている。Deming氏は1946年以来、たびたび来日して講演する。1950年の滞日中、朝鮮戦争が勃発した。この連載の第2回で述べたように、朝鮮戦争は米国の対日政策を変える。日本を「反共の防波堤」「アジアの工場」と位置づけ、安くて質の良い工業製品の供給基地として、日本を米国の軍事目的に役立てようとした。

 ここから発生した米国の軍事特需の基準を満たすため、日本の産業界は品質管理を追求するようになる。そしてDeming氏の教えを熱心に勉強した。1950年の日本でのDeming氏の講義録は、日本科学技術連盟(日科技連)から本として出版される。みな、飛び付いたという。この本の売り上げに基づき、デミング賞が1951年に創設されている [中山、「3-6 品質管理の日本的展開」、『通史 日本の科学技術』、第1巻、学陽書房、1995年、pp.269-276]。

 完成後に欠陥を見つけるのではなく、欠陥を防止せよとDeming氏は説く。このDeming氏の主張は当時の米国では受け入れられていない。しかし日本の半導体業界はDeming氏の教えに忠実だった。

 米国のDRAMユーザーは日本製を支持する。日本製のDRAMは米国市場でのシェアを上げる。それは偉大なる成功だった。「安かろう悪かろう」だった日本製品が、DRAMという最先端ハイテク分野において、「値段の割に質の良い」製品となり、米国製品を凌駕する。大成功というほかない。しかしこの大成功が、後年の日本半導体産業の凋落を準備する。「成功は失敗のもと」でもある。