オープン化した水平分業の危険──Atari社による米国ゲーム産業の急成長と崩壊

 水平分業構造のなかで大をなすためには、自社製品のインタフェースを公開し、他社が補完製品を開発してくれるのを促すことが有効である。この行為はオープン化だ。オープン化すると「自社内では思いもよらなかった応用を他社が開発してくれたりする。自社の製品をめぐって知的集積の輪を組織化することに成功した企業には周囲がよってたかって付加価値をつけてくれる」[國領、「日本型システム――閉鎖型からの脱却を」、『日本経済新聞』、1997年8月18日付朝刊]。その「応用」(自社製品にとっての補完的製品)を使うために、自社製品を買ってくれる顧客が増える。めでたしめでたし、である。しかし、いつもこうなるとはかぎらない。

 特に問題となるのは、他社製品の品質管理である。この問題が深刻になり、主役企業が倒産、一つの産業が崩壊した例がある。以下にこの例を紹介する。

 1977年に米Atari社は、プログラム内蔵方式の家庭用ビデオ・ゲーム機を発売する。プログラム内蔵方式ではあるが、ゲーム専用機だ。このAtari社のゲーム機が1980年代に入ると、大きくヒットする。そのヒットの理由の一つは、ソフトウエア開発のための仕様(インタフェース)を同社がソフトウエア・ベンダーに広く公開したことだ[真木ほか、「日本のビデオゲーム産業におけるビジネスモデルの変遷-オンライン化とサービス化へ向けて-」、ASB Case No.2、早稲田大学アジアサービス・ビジネス研究所、2011年09月06日]。

 このオープン化によって、ユーザーが遊ぶことのできるソフトの数が激増する。これがAtari社のゲーム機の爆発的ヒットをもたらす。米国のゲーム産業は大きく成長した。

 しかし間もなく米国のゲーム産業は衰退していく。誰でも参入できるオープンな開発環境のせいで、粗悪なソフトが市場に氾濫する。Atari社はソフトの品質管理には関与しなかった。ソフトへの不信は、ハードの不信につながり、さらにはゲーム産業そのものが信頼されなくなる。1982年にAtari社は倒産する。1983年ごろには米国のゲーム産業は、いったん崩壊してしまう。

 任天堂はAtariの失敗を学んでいた。「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を1983年に発売する際、同時にゲーム・ソフトも発売する。初期の人気ソフトは、ほとんど任天堂製である。この段階では一種の垂直統合になっている。自社製人気ソフトのおかげでハードウエアの販売台数が急伸する。こうなってから任天堂はソフトウエア開発環境を公開した。

モジュール化分業における安全設計の落とし穴

 上記のゲーム産業の事例は、以下に述べるモジュール化分業における安全設計の問題と同型である。インタフェースを介して、二つのモジュール設計が独立に進行しているとしよう。

 それぞれは設計に際して、効率を意識する。設計は必要十分に「最適」化したい。このとき互いに、インタフェースの向こう側のモジュールは「完全」に設計されていると考えたくなる。そうすると、「最適」と「完全」の間に隙間が忍び込む。向こうは「完全」に設計しているだろうから、こちらは、ここまで落としても「最適」のうちに入るだろう。そう考えて安全のグレードを少し落とす。向こう側も同じ「最適」設計をしたらどうなるか。

 石油タンクの基礎と本体の接点で問題が生じ、大規模なコンビナート災害につながった例がある。タンク本体の設計者と、それを設置する基礎の設計者のそれぞれが、互いに向こうは十分安全に(「完全」に)設計されているものと仮定し、自分の担当部分を「最適」に設計した。その結果「予想もつかなかった」事故が起こる[中岡、『科学文明の曲りかど』、朝日新聞社、1979年、pp.218-230]。

 2013年に起こったボーイング787の航空機事故に 「モジュール型ものづくりの盲点」という指摘がある [ 山川、「編集長の視点」、『日経ビジネス』、2013年06月03日号、p.1]。ボーイング社の担当副社長は「想定外」だったとしている[シネット、「異常加熱の連鎖、想定外だった」、同上、pp.26-27]。