1990年代後半に至って潮流が変わる

 しかし1990年代の半ばになると状況が変わる。きっかけは、OSに「Windows」が登場したこと、安いDOS/V機が海外から入り始めたこと、インターネットがブームになったこと──などである。

 Windowsの登場で「98」とDOS/Vには、エンド・ユーザーから見たときの違いは、日本語処理についてもほとんどなくなる。海外からのDOS/V機流入は、日本のパソコン価格の高さを改めて実感させた。国内メーカーも低価格のDOS/V機をようやく本腰を入れて日本市場に投入する。

 1997年の8月にNECも、DOS/V機の国内併売を発表する。日本のパソコンが「98」で象徴される時代は、こうして終わる。ほぼ同時に、日本語ワープロの時代も終わる。日本語文章を作成する作業も、表計算や図面作成などと共に、汎用パソコンで行うように変わっていく。

 しかしそうなったとたん、すなわち1990年代の後半になると、パソコン生産単価は減少を続けるようになり、パソコン生産金額の伸びが鈍る。2000年を過ぎるとパソコン生産金額は急減していく。

 日本市場が一種の「鎖国」状況にあったとき、日本のパソコン事業は栄えた。開国し、市場がグローバル化したら、生彩を失う。前回述べた携帯電話機の場合と同様である。

パソコンでは水平分業が定着

 コンピュータ市場における汎用機からパソコンへの主役交代は同時に、コンピュータ市場の構造転換をもたらした(図4)。パソコン市場では、汎用コンピュータの場合と違って、グローバルな水平分業体制が形成される。この水平分業体制のなかで日本企業は存在感を小さくしていく。

図4 コンピュータ産業における垂直統合と水平分業
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 汎用機では、コンピュータ市場の構造は、図4(a) のような垂直統合型だった。各社とも、部品から完成品としてのコンピュータまで、何でも自社で作る。さらに各社とも、汎用コンピュータは自社のディーラーから販売していた。

 ただし実際には、IBM社の汎用コンピュータ「システム/360」(1965年発売)以後、IBM社が意図しなかった互換機ビジネスが発生していた。IBM製コンピュータの中のモジュールに、他社製品が入ってくることが可能になっていたのである。

 システム/360は「ファミリー」概念を導入した。ファミリー内の各機種のサイズは様々である。しかし実行命令セットは、すべて同一だった。システム/360のファミリー機種であれば、すべて互換性がある。小型機を使っていたユーザーが大型機に乗り換えるとき、小型機で使っていたプログラムは、そのまま大型機でも使える。入出力機器も、そのまま使える。逆に、本体をそのままにして、入出力機器だけアップグレードすることも可能だ。

 ユーザーは大歓迎した。システム/360は、IBM社のコンピュータのなかで、商業的に最も成功した製品群となる。システム/360は、コンピュータ産業におけるIBM社の地位を、圧倒的に高めた。

 ファミリー全機種のアーキテクチャを統一し、互換性を実現したのはモジュール化設計である[ボールドウィンほか、『デザイン・ルール』、東洋経済新報社、2004年]。しかしモジュール化は諸刃の剣だった。互換機はIBM帝国を浸食する。新興企業が、プリンター、端末、メモリ、ソフトウエアや最後にはCPUに至るまで、いわゆるプラグ互換モジュールを製造する。IBM社提供のインタフェースに従いながら、IBM社の内製品よりコスト・パフォーマンスに優れた製品がつくられる。これら互換機の市場の伸びは、やがてIBM社自身を脅かす。

 さらに後年には、IBM社が圧倒的な存在感を誇っていた市場から、多数のベンチャー企業が水平分業する市場へ、コンピュータ業界が転換していく。その構造転換を可能としたのも、システム/360が導入したモジュール化設計であり、その帰結としての互換性だった。

 システム/360の場合は、IBM社は互換機を意図的に導入したわけではない。ところがIBM-PCの場合は、他社からのモジュール供給を最初から前提としている。それも、マイクロプロセサとOSという中核モジュールの供給を、他社にあおぐ。

 結果としてパソコン市場は、オープン化した多層水平展開構造(水平分業)となった。図4(b)に見るように、マイクロプロセサ、ハードウエア、OS、アプリケーションなど、システム階層の各層ごとに複数の企業が製品を出しており、それぞれの企業は事業を特定の層に絞り込んでいる。販売チャネルも、メーカーの直接販売、量販店、通信販売など、さまざまだ。