ワープロ専用機が日本では一時期大きな市場を形成

 最初の「日本語ワードプロセッサ」は、コンピュータではなく専用機として世に出た。もちろん中身はプログラム内蔵方式のコンピュータである。しかしユーザーは「コンピュータ」を意識することなく、日本語の文章を作成するための専用機として購入した。日本では「ワープロ」が、パソコンとは別の市場を形成する (図3) 。

図3 パソコンと日本語ワープロの生産台数推移
資料:経済産業省 機械統計
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 第1号機は630万円もしたが、すぐに参入メーカーが増え、価格も急速に低下する。1980年代後半には、工場出荷額では10万円を下回る。生産台数も汎用のパソコンに拮抗する。

 しかし1990年代に入ると、パソコンの躍進が始まる。同時にワープロの衰退が始まる (図3)。日本語の文章作成も、パソコンに委ねられていく。

世界ではIBM-PCが事実上の標準機に

 パソコンが産業として世界的に大きな存在になったのは、1981年発売のIBM-PCがベストセラーになってからである。さらに1984年にIBM-PC/AT (ATはAdvanced Technologyの略)が発売され、その互換機が世界標準となる。

 米IBM社はパソコン進出にあたって、仕様を公開し、互換機の登場をむしろ促した。またIBM-PCは、マイクロプロセサには米Intel社の「8086」、OS(オペレーティング・システム)には米Microsoft社の「MS-DOS」を採用した。これが結果的にIntel社とMicrosoft社の地位を強化する。

 IBM-PCとその互換機の生産には、台湾が大きな役割を果たす。仕様が公開されているため参入が容易で、市場としては世界全体を期待できる。ハードウエアの価格競争力で勝負できる市場が形成されたということである。台湾の工業的発展にもパソコンが大きく寄与した。

日本語処理が海外からの参入障壁

 ところがIBM-PCとその互換機は、日本ではなかなか標準にならなかった。その理由は日本語にあった。日本語が外国製パソコンに対する参入障壁として働き、日本のパソコン市場を一種の「鎖国」状態にしたのである。

 日本電気(NEC)がいわゆる「98」 (PC-9800シリーズ) を発売したのは1982年である。IBM-PC発売の翌年だ。以後日本ではこの「98」が良く売れ、パソコン市場の過半のシェアを獲得する。他の国産パソコン・メーカーも、独自性にこだわり、世界市場とは異なるパソコン市場が国内に形成された。

 最初の「98」PC-9801が採用したマイクロプロセサはIntel社の「8086」であり、OSはMicrosoft社の「MS-DOS」である。いずれもIBM-PCと同じだ。OSが同じなのだから、本来は同じアプリケーション・ソフトウエア(以下、アプリケーション)が走るはずである。しかしそうはならなかった。

 その最大の理由は日本語処理にあった。アルファベット主体なら文字を表すのに1バイト (8ビット=256) で済む。日本語は文字数が多く、文字コードに2バイト (16ビット=65536) を必要とする。このため「98」は漢字フォントをハードウエアとして持っていた。これが海外のパソコン・メーカーにとっては参入障壁となり、「98」のシェアが圧倒的に高いという、特殊な市場が日本に形成される。日本以外ではIBM-PC互換機が早くから事実上の標準機となっていた。

 しかし1990年のDOS/V規格の登場によって、事態が変わる。DOS/Vはアジア系言語向けの規格である。もちろん日本語も対象だ。文字を表すのに2バイトを用いる。漢字フォントをソフトウエア的に持つことにしたため、IBM-PC/AT互換機のうえでも日本語処理が容易になる。このDOS/Vの規格を日本IBMは、望む企業に公開した。

 しかし日本メーカーはそれでもなお、独自規格への執着が強かった。また日本には、先に述べた日本語ワープロという専用機が存在する。ワープロはプリンタも内蔵して価格性能比が高い。国内パソコン・メーカー各社は、パソコンの売り上げとワープロの売り上げを勘案しながらビジネスを展開した (図3)。

 「98」に象徴される日本のパソコンは、国際標準であるPC-AT互換機に比べると高価だった。そのうえ図1に見るように、1980年代後半から1990年代前半にかけ、パソコン生産単価は上昇している。ユーザーがパソコンよりワープロを選んだ理由でもある。