1985年が日本の電子産業の歴史的転換点だった。この連載の第1回、第2回で繰り返し、そう述べてきた。同じ1980年代半ばには、通信分野にも大きな変化があった。
米国では1984年に米AT&T社が分割された。日本では1985年に日本電信電話公社(電電公社)が民営化され、関連グループに改組される。いずれも、通信サービス市場への自由競争導入が狙いである。
この時期、1980年代の半ばは、世界史的な転換期である。ゴルパチョフ氏がソビエト連邦(ソ連)の最高指導者となったのは1985年だった。それは東西冷戦の「終わりの始まり」を象徴する。1世紀近くをかけた実験の末、全体主義計画経済は、自由主義市場経済に敗れ去ろうとしていた。おりから米国はレーガン大統領、英国はサッチャー首相、日本は中曽根首相が政権を担う。いずれも新自由主義的な経済政策をとる。通信自由化は、その一環である。日本では国鉄民営化が、中曽根内閣のもとで実施された。
1985年の電電公社民営化で通信事業が自由化
日本では電話は、なかなか普及しなかった。高度成長の始まる1955年時点でさえ、家庭への電話普及率は1%に過ぎない (図1)。電話サービスへの加入を申し込んでも、電話事業者は、すぐには電話機を設置してくれない。申込者の増加に電話網の拡充が追いつかず、申込者は長く待たされる。この状態を「積滞」という。
「積滞解消」と「全国自動即時化」が電電公社の目標となる。自動即時化とは、いわゆるダイヤル自動通話である。積滞解消は1978年、全国自動即時化の実現は1979年だ。また家庭電話が業務電話を加入者数で上回ったのは1972年である (図1)。このころの家庭への普及率は30%ほどにすぎない。
日本では電話事業は1890年に始まった。「誰の家にも電話がある」という状態が実現するのは1980年ごろである。それは、ほとんど100年をかけた大事業だった。
「誰の家にも電話がある」状態が実現したとき、電気通信業界は一変する。1985年4月1日に、日本電信電話公社が日本電信電話株式会社 (略称はNTTのまま) に衣替えする。このNTT本体は持ち株会社で、国内電話サービスはNTT東日本とNTT西日本が受け持つ。他に、無線携帯電話を受け持つNTTドコモ、データ通信主体のNTTデータなど、グループ企業が整備された。
電電公社の民営化は、100年近く続いた通信事業の独占体制が終わったことを意味する。特に移動通信分野には、新規参入が相次いだ。