自信、勘違い、空元気がないと新しいことはできない

 例えば、情報通信関連の最近のケースでは、スマートフォンを家電にタッチするだけで連携させるユーザー・インタフェース(UI)技術をソニーは本格的に展開し始めている。これは現在、同研究所の副所長を務める暦本純一氏が2001年に発表した「FEEL」というコンセプトが基になっている。携帯型ゲーム機「PS Vita」の背面に搭載したタッチ・センサも同氏が10年以上前に提案したものだ。

2001年に発表した「FEEL」の写真。暦本純一氏が開発した。ソニーは最近、この技術を基にした家電向けのUIの実用化を本格化している。(写真:ソニーCSL)

 こうした技術は今でこそ実現可能なものだが、研究に着手した時点での技術水準では挑戦的なテーマだったはずだ。最近、ソニーが新たに注力しつつあるヘルスケアや医療の領域も、実はソニーCSLでは10年ほど前から研究を手掛けている。北野氏が研究者として今最も関心を持っているシステム生物学は、その一つだ。「これまで手掛けてきた人がいるから、ヘルスケアやメディカル関連の事業で国際的な助言を得られるという側面がある。何の土台もなしにいきなりというのでは難しい」と、北野氏は指摘する。

 自由な雰囲気の研究所とはいうものの、もちろん、事業化に向けた仕組みも用意してある。CSL内には、TPO(Technology Promotion Office)と呼ばれるビジネス支援組織に3人の専門家が常駐し、研究所で生まれた研究や技術の活用をプロモートしている。

 ソニーCSLの研究者は報酬も個別に交渉し、1年ごと契約を更新する。それは、研究者にとってはリスクでもあるだろう。ただ、「CSLを踏み台に使ってやるくらいの人ではないと困る」と、北野氏は考える。

ソニーCSLの研究者がスピンアウトして立ち上げたベンチャー企業「クウジット」。無線LANを用いた測位技術やAR(拡張現実)関連の技術開発を手掛ける。写真左は創業者の3人。左から暦本氏、社長の末吉隆彦氏、取締役の塩野崎敦氏。
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 「どこでも食べていけるだろうという自信というか、空元気というか、勘違いというか、そういうのがないと誰もやっていない新しいことはできないでしょう。安心したいというマインドセットと、チャレンジは相容れないですよね。挑戦することが重要なので、その機会をCSLでは提供しています」

 この点は、日本の大学や研究機関の大きな課題と言えるのではないか。ソニーCSLの伝統を引き継ぐ北野氏の考えは、国際的には極めて常識的で特に変わったマネジメントの手法ということではない。研究者は、より自由で魅力のある仕事を契約を通じて選択する。そのためにリスクを負うが、より高い成果を求めて努力し競争できる。日本を一歩出ると、研究に限らず多くの分野で同じことが行われている。

 その意味でソニーCSLは、日本の伝統的な企業の研究所から一足先に国際標準に基づいて、先端を走り続けているということなのだろう。実は、異彩を放っているわけではない。異彩な存在に見えてしまう日本の研究風土の方が課題を抱えているのではないか。国際標準に基づいたマネジメントを地道に粛々と進めること。これが、ソニーCSLを維持していくマネジメントの極意のように思えた。