問題は、こうした行動がまるごと機械に取って代わられそうなことだ。ネットを介して人がやりとりする情報は、原理上すべてインターネット上にある機械の「脳」にも送られ得る。「感覚器」や「筋肉」の動きが、漏らさず脳に伝わるわけだから、それらを蓄積して学習すれば、いずれ機械は運転や加工といった動作ができるようになるはずだ。

 しかもネットは無数のユーザーから情報を吸い上げられるからタチが悪い。工作機械を操る熟練の職人の動作を、何万人分も集めたらどうだろう。機械の脳は、人間とは比べものにならないスピードとボリュームで経験を積むことになる。いわゆる流行りのビッグデータとやらで統計処理しようものなら、誰も太刀打ちできないスーパー職人が生まれるかもしれない。事実、将棋の世界では過去の膨大な棋譜に学んだコンピュータが名人を打ち負かしつつある。知恵の世界でそうなら、身体の領分は別とは言えないだろう。

 つまり、身体を持ったインターネットは、労働や生活のさまざまな場面で人類を超える可能性があるのである。弊社が翻訳を出している「Race Against The Machine(機械との競争)」という本は、コンピュータが人の仕事を奪っているさまを描いている。その勢いは今後も止まらず、特殊技能や職人芸など、現在は人間ならではと思われている分野まで機械が侵食していくのではないか。

 それだけでは終わらないかもしれない。かつて人工知能(AI)界の風雲児、米MIT(Massachusetts Institute of Technology)のRodney Brooks氏は、知能には身体が必要であると主張した。そして、環境の刺激に対して反応する単純な反射行動を積み上げていくと、複雑な知能さえ作れると宣言したのである。これが本当だとしたら、身体を持ったインターネットには本当に知性が芽生えるかもしれない。

 これは大変だ。我々は、ひょっとしたら映画「ターミネーター」シリーズに登場するスカイネットの誕生に立ち会っているのかもしれない。この拙文が、締め切りを目前にした焦りが生んだ妄想のまま終わることを祈る。