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“中国版Amazon”をつくったエリート夫婦(3):妻は科学者を諦め金融へ

2013/09/17 00:00
永井麻生子=おあしすランゲージラボラトリー代表
今回紹介する書籍
書名:贏在当当
著者:李良忠
出版社:安徽文芸出版社
出版時期:2012年11月

 今月、本コラムで取り上げているのは『贏在当当(勝利は当当にあり)』。

 先週は経営者夫婦の夫のほう、すなわち李国慶の起業までの半生を振り返った。今週は雑誌などでもよく取り上げられている妻、すなわち兪渝の半生を見ていこう。

 兪渝は1965年5月重慶生まれ。幼い頃は祖母に育てられ、祖母の影響は彼女にとって大きいという。祖母は病弱だったが大変楽天的でしっかりした人とのことだ。7歳の時、兪渝は両親とともに北京に移り住む。彼女は大変に優秀だったため、母親の期待は相当なもので「中国のキュリー夫人」を目指せと言われていたという。冗談交じりながら「元素周期表にはまだ発見されていない元素が三つあるといいます。あなたはそれを見つけなさい」と言われていたそうだ。期待が大きかったが故に、母親は大変厳しく、テストの出来が悪ければ殴られたという。

 兪渝は理工学部に入り、エンジニアになりたいと考えていた。しかし、残念なことに彼女は目が悪かった。当時、中国の理工学部は一定の視力がないと入れなかった。それで兪渝親子はしかたなく科学者への道を諦めたのである。

 そこで彼女が選んだのは外国語であった。彼女の母には語学の才があり、文学にも造詣が深かった。彼女自身もまた母の影響を受け将来を選択したのだ。

 1980年に中学校を卒業するときに、彼女は6年間の一貫教育の実験クラスに入れられた。修了時には北京大学と北京外国語大学のどちらかを選べたのだが、彼女は外国語大学を選ぶ。通訳になることが彼女の新しい人生の目標となっていたからだ。

 在学中から彼女は通訳として活動し始める。外資系企業で重要な仕事をこなし、専門知識が必要な分野の通訳も猛勉強し臨んでいった。

 そんな中で、彼女に留学を決意させる出来事があった。ある交渉の通訳をしたときに、中国側と外国の相手とのあまりの差に愕然としたのだ。中国側のビジネス・パーソンは外国人相手に全く歯が立たなかった。その差を見て彼女は自分も海外へ行きたいと考えるようになったという。彼女は留学費用を稼ぐため、卒業後、国から与えられた職に就かず、学生時代に勤めていた外資系企業で米国人総経理の通訳兼秘書として働くことにした。国から与えられた職の月給は78元、それに対し外資系企業のこの仕事は月給2000元程度だったという。こうして彼女も「金満エリート」の仲間入りをしたのだ。

 1987年に兪渝は初めて国を出た。日本の外務省に当たる組織が、中国の対外開放政策についてPRし、いくつかのプロジェクトをまとめる訪問団を米国に送ることになったのだ。彼女はその訪問団に随行して、約1カ月、10数都市を回ることとなった。彼女はこのチャンスを逃さず、米国滞在中にオレゴン大学の面接試験を受け、見事合格した。彼女の学生時代からの夢が叶ったのだ。

 米国に渡った兪渝は自分の学びたいことを学ぶためには経営学修士(MBA)を取らなければ、と考えた。そして金を貯め1990年にニューヨーク大学のマーケティング専攻に入る準備を始める。そんな頃、彼女はある銀行家と知り合った。兪渝が中国から来たというとその人は彼女に大変興味を示し、いろいろと話してくれた。そして、「マーケティングなんて学んでどうするの?僕を見てみなよ。金融でしょ!1年で30万米ドル以上稼げるんだぜ!30万米ドル!」と言った。その言葉を聞いて兪渝は金融を学ぶことを決意し、すぐさまニューヨーク大学のMBAで金融を専攻することにした。

 1992年、彼女が卒業した年は米国では「50年に一度の就職難」であった。なかなか気に入った就職先が見つけられなかった彼女はいきなり起業することにする。学生ではあったが長らくビジネスの現場で働いてきたため、すでに経験も人脈もしっかりと築いているという自負があったからだ。彼女は得意分野を生かし企業買収と財務専門のコンサルタント会社を立ち上げる。28歳という若さではあったが彼女の会社は順調に成長を続けた。その代わりに仕事は多忙を極め、1995年には1年の内少なくとも200日は出張してホテルで泊まっていたという。

 そのような彼女が李国慶と出会うのが1996年前半。では次回は当当網がどのような困難を乗り越えてきたのかを見てみたい。