2012~2013年に発売されたスマートフォンやタブレット端末は、“猫も杓子も”クアッド・コア(Quad Core)チップを採用しています。Quad Coreでなければもはや最先端ではない、そんな状況です。モバイル分野にマルチコア(Dual Core)製品が最初に登場したのは、今からわずか3年前の2010年のことです。学会などでの発表となると、2008年ごろまでさかのぼります。当時、Dual Coreを積極的にアナウンスしていたのは米Texas Instruments(TI)社でした。同社の「OMAP 4」シリーズは、当時最先端のCPUコアだった英ARM社の「Cortex-A9」を2個搭載していました。

 図1に示したのは、2010年末に販売されていたDual Coreチップの一覧です。筆者の記憶が定かならば、Cortex-A9を搭載した業界初のモバイル端末向けDual Coreチップは東芝の「Mobile Turbo T6」でした。その発売翌月には同じ東芝が、米NVIDIA社の「Tegra 2」を搭載したネットブックを発売しました。

図1●2010年12月時点で市販されていたモバイル向けDual Core CPUチップ
図1●2010年12月時点で市販されていたモバイル向けDual Core CPUチップ

 2010年の年末には、先に述べたTI社のOMAP4を採用した製品が市場に出回りました。2011年以降には、米Qualcomm社やルネサス エレクトロニクス、スイスST-Ericsson社などが加わります。2012年になると、これら日米欧メーカーに加えて、中国Rockchip社や台湾MediaTek社、韓国Samsung Electronics社など、多くのアジア・メーカーがDual Coreチップを市場投入しました。

 モバイル用途ばかりでなく、Google TVやAndroid TVが急速に普及したのもこの時期です。これらの製品にもDual Coreチップは数多く採用されました。図2に、Dual Coreチップのテレビ関連での採用事例を示しました。

図2●2012年にはSmartTVやGoogle TVもDual Core化
図2●2012年にはSmartTVやGoogle TVもDual Core化

 筆者は、半導体メーカーでCPUのインプリメント業務に携わっています。そのため、他社の動向は注意深く観察しているつもりですが、わずか3社がDual Core製品を発売していた2010年末の状況は、その後一挙に変化します。

ARM社のPOPサービスのインパクト

 その背景の一つとして指摘できるのは、ARM社が始めたPOP(Processor Optimize Pack)というサービスです。その中身をザックリといえば、あらかじめ最適化されたCPUコアをほぼそのままチップに搭載することを可能にするサービスということです。

 あるCPUコアを自社のチップに最適化するためには、大きく三つの要素が必要です。部品、全体(RTL)の構造、そして検証です。それぞれに対して、多くの熟練したエンジニアが必要です。三つの要素を「無駄なくつなぐ」ための卓越したマネジメントも欠かせません。多くの場合、CPUメーカーは一定規模のチームを編成し、チップ面積や消費電力、動作速度などの最適化に膨大な労力を費やします。まるで“獲物を狙う鷹”のように、旋回(微調整)を何度も繰り返すことが少なくない。こうした作業によって確かにチップの性能は高まりますが、コストの増加をもたらします。常に、性能対費用という根源的な問題が立ちはだかるわけです。

 CPUの設計に要するコストは、増加の一途をたどっています。CPUやGPUの大型化、さらには微細化によるトランジスタ特性の変化などもあって、CPUの設計が“スイッチ・ポン”で完了することはまずありません。熟練したエンジニアをコストを考えずに十全に使えるならば、そしてスケジュールの制約もなく延々と性能向上を追求できるならば、CPU性能は今よりも格段に高められるでしょう。しかしビジネスである以上は、たとえ究極の性能は実現できなくても、「90点でよいから早く市場投入すべき」という考えが優先されるのは当然といえます。

 その意味で、ARM社がPOPサービスの提供を開始したことは、CPU開発という重労働から半導体メーカーを解放する、ターニング・ポイントとなる出来事だったと筆者は捉えています。CPUのインプリメントや検証、部品設計などに長けたエンジニアがいなくても、熟練したエンジニアを擁するメーカーと同等のCPUを製品として持つことができる状況を生み出したからです。

 ARM社のPOPサービスを「ブラックボックス化」だと捉える人もいます。しかし筆者はそうは捉えていません。POPサービスには、RTLや検証環境、物理情報、回路情報、電力情報など、ほぼすべての情報が揃っています。これだけの情報を開示した上で、完成したCPUコアを提供するわけです。これがブラックボックスだとすれば、ほぼすべての半導体メーカーの内部は「ブラックボックス」になってしまう。ARM社や台湾TSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing Co., Ltd.)などは、「本質的なレシピ」以外のほぼすべてを公開します。本質的なレシピとは、すなわちCPUコアを作る工程そのもののことです。

 ARM社のCPUコアを使う側からすると、むしろ事態は「ブラックボックス・レス化」と映ります。CPUの開発という(費用と時間と人員の)大きな負担から解放されることは、ファブレスやファブライト、IDMといった事業形態によらず、半導体メーカーに大きな恩恵をもたらします。設計者がいないために、優れたアイデアがあってもCPU市場に参入できなかったメーカーにとっての参入障壁を確実に下げました。

 ARM社のPOPサービスは、今ではGPUも対象としています。昨今のチップは、「CPUコア+GPUコア」の面積がチップ全体のほぼ7割を占有しています。ここに加えるのは、1080pデコーダーなどの要素。実現したい性能が1.5GHzだろうが2.0GHzだろうが、CPUコアとGPUコアを外から買ってくればよいという状況が2012年以降に生まれているのです。