タイトル

 米Motorola社と日立製作所が1976年に始動させたマイコン技術をめぐる提携では当初、Motorola社が“教師”、日立は“生徒”だった。「マイコンで出遅れていた日立が、提携後の数年間にMotorola社から学んだことは多かった」(牧本)。その一方、“打倒Intel”を掲げて団結したパートナー企業として、日立にも応分の貢献が求められた。皮肉にも、「応分の貢献」をしようとこの後、日立が独自に開発に成功した幾つかの革新的技術が、蜜月関係にあった両社の関係に亀裂をもたらすことになる。そのうちの一つが、1970年代後半以降に世界を席巻した日立のCMOS技術である。

 1978年、日立は世界に先駆けて高速CMOS技術を開発、同年2月のISSCC(International Solid-State Circuits Conference)で同技術に基づく4KビットSRAM「HM6147」を発表し、大きな反響を呼ぶ。当時の主流技術だったnMOS技術に基づく米Intel社の4KビットSRAM「2147」をしのぐ性能やチップ面積を、CMOS技術で実現した成果だったからだ。今では信じられないことだが、その頃のCMOS技術は「低電力だが動作速度やコストでは劣り、ニッチな用途にしか使えないというのが業界のコンセンサスだった」(牧本)。武蔵工場勤務(当時)の安井徳政、中央研究所勤務(同)の増原利明と酒井芳男らが中心となって開発したHM6147は、半導体業界の常識を打ち破る画期的なチップだったのである。

 HM6147で世に問うたCMOS技術を中速版SRAMに応用し、1980年に発売した16Kビット品「HM6116」は大ヒットを飛ばす。1981年の16KビットSRAMの市場で、日立は世界トップ・シェアを獲得した。この成功を通じて、牧本は「これからはCMOSの時代が来る」と確信した。

 CMOS技術の適用先として、SRAMに続いて白羽の矢を立てたのが8ビット・マイコンだった。早速、Motorola社の8ビット・マイコン「6801」を、ソフトウエアの互換性を保ってCMOS化した「HD6301V」(以下、6301)の開発に着手する。研究所と工場が一体となって急ピッチで開発を進め、1981年10月に製品発表を行った。この開発プロジェクトには、当時入社間もなかった現ルネサス エレクトロニクス社長の赤尾泰も加わっている。6301は、現在のCMOSマイコンの原点といえるチップであり、マイコンで世界トップ・シェアを握るルネサスの原点ともなった。

 このCMOSマイコンに最初に飛びついた機器メーカーは、信州精器(後のセイコーエプソン)だった。同社 取締役(当時)の中村紘一は、牧本のラ・サール高校(鹿児島県)時代の後輩で、二人は旧知の仲だったのだ。6301発売前の1981年3月に中村は牧本を来訪し、「オールCMOSパソコン」の開発計画を明かすとともに、そこに6301を搭載したいと牧本に申し出た。これを受けて、6301の最初のサンプル品は信州精器に提供された。

 6301の製品発表から3カ月後の1982年1月に牧本を再訪した中村は、オールCMOSパソコンの具体的な仕様を明らかにした。中村が企画していたのは、世界初のハンドヘルド・コンピュータだった。ここに6301を2個使い、8KバイトのRAMと32KバイトのROMを含むすべてのCMOSデバイスを日立から調達したい、という。牧本らにとっては、願ってもない申し出だった。このハンドヘルド・コンピュータは1982年7月に「HC-20」という製品名で発売される。現在のモバイル・コンピュータの先駆けとなった端末であり、企業の営業担当者などに受けて大ヒット商品となった。