タイトル

 カスタム品から標準品へ、という1970年代前半の半導体業界の流れを受けて、日立製作所はマイコン事業への参入を決める。最初に手掛けたのは、米Intel社の4ビット・マイコン「4004」の互換品だった。Intel社から後れること3年、1974年6月に第1弾製品が完成する。この製品の開発プロジェクトに参加したのは、中央研究所の喜田祐三の他、武蔵工場の長瀬晃、中島伊尉、木原利昌など、その後の日立のマイコン事業を背負って立つことになる人材だった。4ビット・マイコンについては、第1弾製品の投入後に電卓用LSIの開発グループが中心となって独自開発を進め、1977年3月に日立のオリジナル品である「HMCS45」の製品化にこぎつける。

 問題は、アーキテクチャ設計が競争力を分ける8ビット・マイコンにどう取り組むかだった。牧本らは、デバイス技術者が多くを占める半導体事業部だけで取り組むことは難しいと判断し、中央研究所のシステム部門の助けを借りることにした。同部門への「依頼研究」の形で、1972年下期からオリジナル品の開発が始まった。ただし牧本はこの時点で、長期的にはマイコン市場で先行するメーカーとの提携が必要になると考えていた。「それまでカスタムLSIに力を入れてきた日立は、マイコンでは出遅れていた。市場で勝ち目のあるマイコンを独自に開発できておらず、何らかの処方箋が必要だった」(牧本)。

 そこで牧本は、半導体事業部長(当時)の今村好信に「Intel社や米Motorola社などの先行メーカーと、何らかの提携をすべきだ」と訴えた。1973年に伴野正美から半導体事業部長の座を受け継いだ今村は、マイコン事業の立ち上げが急務だと感じていた。牧本の訴えを受け入れる形で、今村は自ら米国の半導体メーカーを回って提携の道を探ろうと決めた。日程は1974年5月12~25日。訪問先は米RCA社(当時)や米Texas Instruments社、Motorola社、米Fairchild Semiconductor社など。牧本はその全行程に同行することになった。

 このツアーで、今村らを格別の待遇で迎えたのがMotorola社だった。半導体各部門のトップが顔をそろえ、市場や技術の動向について詳細なプレゼンを行ってくれた。マイコン事業ではIntel社の8ビット品「8080」をしのぐ性能を持つ「6800」を開発中で、日立とはぜひ協力関係を築きたいという意向を示してくれた。すぐに具体的な契約につながることはなかったが、今村と牧本はMotorola社との提携に可能性を感じて帰国の途に着いた。

 日本に戻った牧本らは、8ビット・マイコンの事業戦略について幾度も議論を重ねた。その結果、「8ビット品では独自路線で勝てる見込みはない。Intel社またはMotorola社との提携が必要」との方針を固める。これを受けて、今回は訪問先をマイコン・メーカーに絞ったうえで、再び米国半導体メーカーを巡ることにした。日程は1974年10月2~15日、訪問先はIntel社とMotorola社を中心とする数社と決まる。これらの企業に関して、マイコン技術の日立への供与(セカンド・ソース)の可能性を探るのが目的だ。牧本は、交渉役を任された半導体事業部次長(当時)の柴田昭太郎に同行することになった。