「日経エレクトロニクス」の2013年2月18日号で、量子コンピュータの開発状況についての解説記事をまとめました。正直、取材を始める前は、正統的なタイプの量子コンピュータには原理的課題がいくつかあることで、実現可能だとは考えておらず、開発の中で生まれた派生技術を中心に紹介したいと思っていたのです。実際、そういう派正技術は少なくなく、それらを集めるだけでも量子系技術の解説記事にはなりそうでした。例えば、通信や撮像素子の信号のS/Nを高めるような技術で、それら自体、最先端の開発成果です。

 ところが、取材を始めて分かったのは、数年前まで解決不能と感じていた課題がいくつか解決され、原理的には量子コンピュータを実際に作れるまでに技術が進んだことでした。これはこの話を柱に据えないわけにはいかないと急きょ、記事内容の方向性を変更。今回のような記事になりました。取材前には「量子コンピュータの実現は無理だろう」と思っていたのが、「予算さえあれば実現できる技術だ」と180度「転向」してしまいました。記者自身の取材前の予想が取材によって覆されるのは、記者冥利につきるというか、非常に心が躍る経験です。

 ただし、12ページしかない記事ではやはり踏み込めなかった議論もあります。それは、量子コンピュータの礎となっている量子力学と、古典的な力学や電磁力学の境はどこにあるかという話です。古典的にはある現象Aとそれに排他的な現象Bは同時に起こり得ませんが、量子力学では同時に起こり得ます。例えば、キャパシタに電荷があるかないか、コイルに流れている電流は右回りか左回りか、といった現象は、古典的にはどちらか一方ですが、量子力学ではどちらも同時に起こり得るのです。

 困るのは、量子力学を認めると、現象AとBが排他的にしか起こらない古典的な現象をどう説明すればよいか分からなくなる点です。理論の境界は一応あって、量子力学は一般にはミクロ系の物理法則とされ、古典的電磁力学などはマクロ系の物理法則とされています。しかし、これがいつもあてはまるとは限りません。有名な「シュレディンガーの猫」という思考実験では、「原子核崩壊」というミクロ系の現象を、ガイガーカウンター、青酸ガス発生器、を介することで「猫の生死」というマクロ系の現象に変換できるのではないかと議論しています。つまり、「猫が生きている状態」と「猫が死んでいる状態」が同時に起こっているという奇妙な現象があり得るというのです。この思考実験は1935年に発表されたもので、量子力学の提唱当時からこうした疑問、パラドックスが問題にされていたわけです。

 この解決策の一つが、いわゆる「多世界解釈」です。これは、量子力学は実はマクロ系でも厳密に成り立っているが、同時に起こり得る現象AとBを観測すると、その瞬間に世界が分岐するのでAまたはBのどちらかが選ばれたように見えるという考え方です。しかし、これは検証しようがなく、それが起こるメカニズムも全く分からないため、理論ではなく「解釈」という位置付けにとどまっています。

 これとは別に、現象AとBはマクロ系でも同時に起こっているが、マクロ系のシステムが多数のミクロ系のシステムで構成されていることから、現象AまたはBが観測される確率が極端に偏っているだけではないか、という議論もあります。最近は、マクロ系であっても、排他的なはずの現象AとBが同時に観測されるようにもなってきました。記事にも書いた、米IBM社の数cm角の量子ビットなどがその例になるでしょう。

 こうした、量子力学的現象をマクロ系で実現する方向とは逆に、最近は古典的なエレクトロニクス技術が、かつては量子力学が支配しているとされたミクロ系にずいぶん入り込んでいます。不思議なのは、半導体の微細化技術は十数nm、つまり原子100~1000個分という微細な寸法になってもなお、古典的な描像でほとんどの議論が済む点です。トンネル現象やシュレディンガー方程式は使っていても、「0」と「1」の重ね合わせで議論しないとトランジスタの動作が制御できない、という話はまだ聞きません。ミクロ系の量子力学とマクロ系の古典的描像というかつての住み分けは、ほぼ崩れつつあります。量子力学自体が一枚岩の理論ではなく、90年近く前の研究者間であった見解の相違が、今になってあらわになってきたようです。

 今回執筆した量子コンピュータの解説では、正統的とされるタイプの量子コンピュータが早ければ5~10年で実現できると書いていますが、ちょうどその頃、半導体の微細化技術も本当の限界を迎えそうです。それまでに、この量子と古典の境界問題が解決すると、新しくて面白い展望が開けそうだなと期待しています。