1996年夏。松下電器産業(現パナソニック)で据置型DVDプレーヤの開発が佳境に入りつつあったころ,開発を担当する光ディスク事業部では,もう1つのプロジェクトが胎動し始めていた。液晶パネルを備えた携帯型DVDプレーヤの開発である。そのキッカケとなったのは,事業部長の四角(よすみ)利和がある会議で発した開発開始の宣言。「1997年春に製品化する」。この発言を青天の霹靂(へきれき)の思いで耳にした技術者がいた。DVDプレーヤの次世代製品ラインを検討していた名本吉輝である。
まず加わったのは「メカ」部分の開発を担当していた山口修。その後,映像関連のいわゆる「絵作り」を担当していた岩崎栄次,そして電子回路関連の開発の中心となっていた中山修三などが先行開発に参加することになった。
これに関して,設計1課の課長として設計部隊を率いていた倉橋章は,苦笑いしながら言う。
「大変だったんですよ。設計部隊から人材を出すのは。ほんとに断腸の思いでした。でもね,名本君が泣き付きにくるわけですよ。『早うせんと…』とか,『回路屋がおらへんのですわ…』とかね。そんなことを言われても,うちかてまだ第1世代の据置型DVDプレーヤの量産も軌道に乗ってないわけやし,それで終わりじゃなく,次の製品もあるわけで」
倉橋は続ける。
「でも,携帯型をやるのは決まっていましたし,専任で開発するメンバーがいないとできないのは分かりましたから,泣く泣く出したんですわ。仕事のできるやつを取られて,えらい苦労したのは覚えてます」