1996年夏。松下電器産業(現パナソニック)で据置型DVDプレーヤの開発が佳境に入りつつあったころ,開発を担当する光ディスク事業部では,もう1つのプロジェクトが胎動し始めていた。液晶パネルを備えた携帯型DVDプレーヤの開発である。そのキッカケとなったのは,事業部長の四角(よすみ)利和がある会議で発した開発開始の宣言。「1997年春に製品化する」。この発言を青天の霹靂(へきれき)の思いで耳にした技術者がいた。DVDプレーヤの次世代製品ラインを検討していた名本吉輝である。
「どないしたらええんですか」
松下電器産業の光ディスク事業部では,今日も名本吉輝が上司を相手に愚痴をこぼしていた。アトランタ五輪の熱気が去り,病原性大腸菌「O(オー)157」による食中毒禍を人々が忘却の彼方に追いやろうとしていた1996年初秋のことである。
同事業部のDVD技術部に属する名本は,携帯型DVDプレーヤの開発を始めようと部内で活動を始めたところだった。キッカケとなったのは,事業部長である四角利和が同プレーヤの製品化を宣言したとのウワサである。しかも,ただ持ち歩けるだけでなく,液晶パネルを搭載した製品にすると四角は言ったという。そのウワサが本当であれば,それを実行に移すのは名本しかいない。
「こんな状態じゃあ,先行開発や技術調査なんてとても無理ですわ」
こんな名本の愚痴を聞かされていたのは,同事業部のDVD技術部で部長を務めていた谷口宏である。その谷口に向かって,名本はため息をつく。
「でも,四角さんが『やる』ゆうたんやったら,やらんといかんのでしょ」
これを聞いて谷口の口から漏れたのもため息だった。
「どないせいゆうねん」
「私1人じゃ,どないもこないもなりまへん」
「『人間をくれ』ゆうことか」
「ええ。エキスパートが2人,いや3人はおらんと」
「確かにそうなんやけど」
「それやったら…」
五里霧中。このときの名本は,まさにこの言葉がピッタリと当てはまる状態だったのだろう。自分が開発を進めなければならないことは分かっていた。だが,考えれば考えるほど,彼の頭の中は混乱していく。