この期に及んで

「こりゃまずいな」

「かなりまずいですよ」

 1996年秋。街を吹き抜ける風は日に日に冷たさを増す。もうすぐ冬が来ようとしていた。目前に迫ったDVDプレーヤの発売日。谷口と倉橋は,開発室でため息をついていた。開発メンバーの頑張りもあり,無事にCSS用LSIは完成した。それを前に肩を落とし,途方に暮れる2人。この期に及んで何でや。2人の思いは1つだった。

「そういやぁ…」

 谷口は何かを思い出したように倉橋を見た。

「今日帰ってきてるんとちゃうの」

「そうやったかもしれません」

「取りあえず,電話してみようや」

「え? 自宅にですか」

「そうするしかないやろ」

「まあ,そうですが」

 そうすれば結果はどうなるか,それはかなり容易に想像できた。

「眠れん夜になりそうですな」

「そうやな…」

 焦燥感は募るばかり。彼らは顔を見合わせ,取りあえず笑ってみせるしかなかった。(文中敬称略)

倉橋章(くらはし・あきら)氏と谷口宏(たにぐち・ひろし)氏
タイトル02
倉橋章(くらはし・あきら)氏と谷口宏(たにぐち・ひろし)氏
谷口宏氏(写真右)は,松下電器産業で映像畑を歩んできた。映像関連の研究から転じてDVDの規格策定に奔走した。「光ディスク事業部DVD技術部 部長」として,据置型DVDプレーヤ第1号機の開発現場をまとめ,その後,DVD―RAMの開発に携わる。倉橋章氏(写真左)は谷口氏とともにDVDプレーヤの開発を進めた中心人物の1人。同DVD技術部の「設計1課課長」。据置型だけでなく,携帯型DVDプレーヤの開発をまとめた。任天堂の新型家庭用ゲーム機「ゲームキューブ」向けのDVD装置は倉橋氏の仕事である。(写真:梅川イサオ)