どれだけやればヒトは壊れるか

 ――明けて1985年。

 その年の正月,四角は機上の人となっていた。米国ラスベガスで開催された民生機器関連の展示会「冬季CES(Consumer Electronics Show)」に参加し,その帰路を急いでいたのである。戻れば,すぐに懸案の携帯型CDプレーヤの開発が始まる。それをどのようにこなすかで四角の頭は いっぱいだった。

 年末の日曜日を返上して決めた開発スケジュールでは,製品化の目標が1985年6月20日。これまでもある程度の開発は進めていたとはいえ,あと半年しかなかった。四角をはじめとする開発メンバーは,その地獄的な日程を想像して,ぞっとする思いを抱いた。

「おい,四角さんとこの××さん,ついにダウンやて」

「ほんまか。ついこないだ△△さんが寝込んだばかりやろ」

「どないなっとんのや」

「開発スケジュールが,めちゃめちゃキツイらしいわ」

「くわばら,くわばら」

 開発メンバーが想像した地獄的な開発日程は現実のものとなった。当時の様子を四角は「人体実験」と表現する。

「開発日程はとにかくハード,当時の開発メンバーは『人体実験』を受けている感じだったのではないでしょうか。技術系の課長職(管理職)のほとんどが,体を壊したと思います。1カ月の残業時間が100時間を超えた状態。これが半年続くと,体調を崩すということが分かった。土曜日出勤を月に4回くらい。これが人間の限界です」

 携帯型CDプレーヤの開発現場は,まさに「地獄絵」の様相を呈していたのだろう。ソニーよりも半年遅れている。それはしょうがない。だが,1年遅れるわけにはいかない。絶対に。その思いだけが開発メンバーを支えていた。