こうして絵に目覚めたことが、現在の土佐氏を形づくるベースになった。素晴らしい表現法を得た同氏は小学校時代から美術クラブに所属。その後、信頼できる美術教師に師従し、いくつもの賞を受賞するまでに才能は花開いた。

 高校時代は思索にふけり、多くの本も読んだ。精神分析学や実存主義、フランス文学からドイツ文学と、絵を描いていない時間はほとんど図書館に通った。フランツ・カフカやアルベール・カミュのような不条理の世界を描く作品を読む一方で、絵画でもサルバドール・ダリなど、シュールレアリズムに傾倒していく。

ECSTASY
土佐尚子 (1986年)
movie(color), sound, 6 min
[画像のクリックで拡大表示]

 地元の短大で美術を続けるが飽き足らず、コンピュータ・グラフィックス(CG)の作品に興味を持つようになる。上京してCGデザイナーとして就職した。米Digital Equipment Corporation(DEC)の「VAXシリーズ」や「PDPシリーズ」などのミニコンピュータに触れ、CGソフトウエアやプログラミングを本格的に学んだのもこの頃のことだ。

 ただ、CGデザイナーとはいっても、顧客が言った通りにCGを制作する請け負い仕事が多く、あまり創造性を発揮できる職場ではなかったようだ。2年ほどで転職し、学研が立ち上げた「学研コンピュータグラフィックス映像センター」に勤めた。

 新しい職場では、テレビ番組で使うCGの制作を中心に、めまぐるしく忙しい日々を経験する。御巣鷹の尾根に墜落した日本航空の旅客機がダッチロールするシミュレーションを、ニュース番組に間に合わせるように徹夜で作ることもあった。この職場は、自分でさまざまなCGのディレクションができた。「面白かった」と、土佐氏は振り返る。

思考をダイレクトには反映できる時代

 ただ、締め切りに追われる心労もあり、胃潰瘍も3回ほどやった。そうした多忙な日々の中で、土佐氏は勤務時間外に自分のアート作品を作り続けた。その活動が実って、米国のコンピュータ関連の国際学会であるACM(Association for Computing Machinery)が開催する国際会議「SIGGRAPH(Special Interest Group on Computer GRAPHics)」で、アート作品が賞を獲得した。

Gush!
土佐尚子 (1989年)
movie(color)、sound、6 min Music by Kosei Morimoto
[画像のクリックで拡大表示]

 福岡で過ごした女学生時代の絵画が表現力を作り、読書や思索が伝えたい感情を形成、東京でCGという新しい表現方法を得ることによって、アーティストとしての才能が一気に開花したと言えるだろう。

 絵は、描き手の意図を一方的に伝えるものではない。それを見る者がどう受け止めるかによってはじめて意図が伝わる。土佐氏は、CGという表現手段にたどり着いた理由をこう話す。

 「CG制作を手掛けながら、思考をダイレクトに反映できる時代がくると考えたんです。それまで、アートは自分が頭の中で考えたことを表現する『手技』が必要でした。でも、CGであれば、その技術がなくてもいいと感じました」

 この頃から、土佐氏の作品は国際的なコンペティションで認められるようになり、作品を扱うギャラリーも現れた。学研を辞め、同氏はCG関連の専門学校の講師を三つほど掛け持ちした後、武蔵野美術大学の映像学部ができると同時に講師になった。この時、東京芸術大学のデザイン学部の講師も経験する。

 作品は国内の美術館をはじめ、ニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館で招待展示される機会も得た。土佐尚子の名前は、日本以上に海外で知られるようになる。

 この頃から、土佐氏は米国に行きたいと思うようになる。夢は数年後に実現されるが、その前にアートとコンピュータは、土佐氏の中で結び付きをより強めていくことになる。