JTNインタビューの初回を飾るのは、任天堂 取締役社長 岩田 聡氏である。これからのエレクトロニクス技術者に必要なものは、「知的好奇心」だとし、「新しいことを覚えることを面白いと感じない技術者が,世の中で必要とされるものを生み出せるはずがない」と説く。長時間にわたったインタビューを3回に分けて掲載する。今回は、その第1回である。聞き手は、日経エレクトロニクス編集長 田野倉 保雄(当時の役職)と道本 健二。

─DSやWiiの成功は,岩田さんが社長に就任して掲げた「ゲーム人口の拡大」というスローガンに負う部分が大きいと思います。このスローガンは,社長就任前から考えていたものでしょうか。

 社長に就任した瞬間から考えていたわけではありません。最初から分かっていたと言えればカッコいいけれど,そんなことはないんです。就任当初は本当にどうしていいのか分からなかった。

いわた さとる 1959年,北海道生まれ。東京工業大学 情報工学科を卒業後,在学中に設立にかかわっていたHAL研究所に入社。「星のカービィ」シリーズなど任天堂ゲーム機向けのソフトウエア開発を手掛ける。1993年に,HAL研究所 社長に就任。2000年に,当時社長だった山内溥氏に請われて任天堂に入社。経営企画室の室長として,グローバルな企業戦略の立案を担当。2002年に,異例の若さで同社 社長に就任,現在に至る。

 私が2002年に社長になった時,任天堂は悪い状態だったと思っている人が多いかもしれませんが,そんなことはありません。1000数百人の社員で毎年,連結売り上げ5千億円,営業利益1千億円を安定して出していた。どう見ても,超が付く優良企業ですよね。

 だから最初は普通に,なんとか会社の規模が小さくならないようにしようとか,「あいつが社長になったらキャッシュ・フローが悪くなった,利益が減った」などと言われないようにしなければと日々考えていました。

 ただ,何か変だなということは薄々感じていました。例えば,社長になったことで,マスコミなどの方々とお会いする機会が増えました。その際に,多くの方から「昔はゲームをやっていたけど,最近は忙しくて全然やっていない」と言われるのです。「私たちが作った娯楽は“忙しさ”に負けている」と残念に思っていました。

 そんなとき,2003年の「東京ゲームショウ」で基調講演をさせていただくことになりました。その準備として,いろいろな資料を集めました。そして「ゲーム市場がどんどん縮小している」ことに気付き,がくぜんとしたのです。CESA(コンピュータエンターテインメント協会)の調査データ(当時)を見ると,日本のゲーム市場が明らかに右肩下がりで小さくなっていました。

 「ゲームをする層を広げなければいけない。そうしないと,おそらく我々はゆっくり死ぬんだ」と思いました。これは恐怖でした。パイがどんどん小さくなっているとしたら,業界で一番になっても死ぬのが先延ばしになるだけです。死ぬのを延ばすために社長をするのはイヤでした。だから「ゲーム人口の拡大」を大きな目標として掲げることにしたのです。

 それを聞いた米国のある幹部が「それって“5 to 95”だよね」とぽろっと言ったのです。そのフレーズはスゴくいい!と思って,「5歳から95歳まで」とか「年齢・性別・ゲーム経験の有無を問わず」(遊べる)といったスローガンも,口にするようなりました。