「久しぶり。メールありがとう。今夜、ミーティングがあるんだけど、参加できない?」

 「う、うん。分かった」

 戸惑いながらも、二つ返事でOKする自分がいた。

 ミーティングでは、既に5人ほどが円卓を囲んで議論を始めていた。長尾氏の他は初対面の人ばかり。そこには、活動のキッカケになった荻原氏もいた。突然、人見知りな自分を思い出し、少し後悔した。

 参加者の話を聞いている内に、Twitterのタイムラインを見ているだけでは、読み取れない実情が見えてきた。まず、実際のところ企業の研修施設を避難先として開放したとしても、それに対するニーズは少ないということ。そして、被災者は、どこかに避難するよりも「元に戻りたい」のだということ。さらに、たとえ避難するしかないとしても、町や地区単位での避難を望んでいて、それだけの規模の人数を受け入れられる企業の研修施設はほとんど存在していないということ、である。

 結局、企業の研修施設を避難者に開放するという目論見は、いわゆる“机上の空論”だったのだ。

 ただし、机上の空論かどうかは、実際に行動を起こした者でないと分からない。それを僕は痛感した。しかも、ミーティングに参加していたメンバーは、自分たちの提案が現実的ではないという事実にがっかりする様子も、肩を落とす素振りもない。むしろ、「やっぱり本当に必要な支援は、もっと現地に行かないと分からない」「自分たちには何ができるのだろうか」という前向きな討議のような対話が繰り返されていた。

 その日のミーティングでは、何も結論らしい結論は出なかった。でも、「やはり大企業が抱えているリソースは復興に向けて必要不可欠であり、大企業の参画は欠かせない」ということだけは確認し合った。帰り際には、こう言われた。

 「で、一緒にやるよね? 山本くんの会社も、ぜひ仲間になってくれないか」

「分かった。きちんと報告だけはしろよ」

 僕は「うん…ちょっと時間をちょうだい」とだけ答えた。最初は、軽い気持ちで「アドバイスだけでも…」と思って参加したけれど、とにかく前へ進むために熱い対話を繰り広げるパワーに圧倒され、僕自身が参画することを断る理由が見つからなかった。ただ、僕個人、つまり“ただの山本啓一朗”で参画したところで、大した力になれないことも分かった。やるからには、自分が所属する企業の協力が必要だと。

 翌日、マーケティング・営業を統括する副社長にダメもとの気持ちで話を聞いてもらった。

 「3・11を機に日本の企業、経済、社会が変わります。新たなビジネスの生態系が生まれて、これまでのビジネスルールが変わるんです。これまで企業が付き合ってこなかったNPOやNGOなど非営利団体がパートナーになる時代になる。日本企業のCSRが変わります。それに気付いた他社は動き始めてますよ。私個人のプロボノ・タイムのリソースを使わせてください」

 今、思い返すと、つたなく勢いだけの説明だったと思うが、副社長は「分かった。きちんと報告だけはしろよ」という言葉と共に快諾してくれた。

 それからは、3日に1度、長尾氏や荻原氏らと夜に集まってミーティングを重ね、既存の支援団体がなかなか手を出せない「子どもの心のケア」に焦点を当てた活動を始めることにした。

 心のケアといっても実際に何をやれば良いのか…。2011年4月半ば。現地を知るために、僕たちは被災地に向かった。